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アメリカは日本に対して貿易か屈従かの二者択一を迫り続けた
2006/10/11 11:27

以上の諸事実は、日米が直接戦闘を交えるはるか以前から、いわば満州事変、支那事変を通じて、すでにアメリカは対日戦争に突入していたことを明らかにしているのである。
 
そして日本の息の根を止めるべく実行されたのが、アメリカの対日経済制裁である。昭和史を通してアメリカの対日経済制裁をみてみると、二つの段階があることがわかる。

第一段階は、日本に対する経済上の差別待遇の徹底である。この政策は、満州事変から支那事変勃発まで取り続けられた。

 戦前のわが国は、毎年香川県一県分の人口が増えていたという。この増大する人口は、貿易を拡大することによって支えていくしかなかった。

しかしアメリカは、昭和五年(一九三〇)七月にスムート=ホーレイ関税法を成立させ、日本からの輸出品に対して、高い関税率(昭和七年には最高の五九%にまで上昇した)を適用することによって、アメリカ国内市場から日本の製品を排除しようとした。さらに昭和十年(一九三五)八月には、アメリカの植民地であるフィリピン向けの日本製綿製品に関する輸入制限を実施した。

 こうしたアメリカの日本に対する経済上の差別待遇政策には、イギリスやオランダも追随したため、日本はこれらの国々のアジア植民地に対する輸出が抑圧されることとなったのである。オランダ側の中には、日本製品を差別的に規制することは、「国際的に了解ずみの事実」と発言した者もいた。

 当時の日本の貿易の基本構造は、生糸を欧米諸国に輸出して外貨をかせぎ、その外貨によって機械や原料を欧米諸国から輸入する一方、欧米諸国の植民地や中国に繊維製品などを輸出するというものであった。

この構造が否定されることになれば、日本は不況のどん底に陥らざるをえなくなる。昭和初期の日本の農家が困窮し娘の身売りといった社会問題となったことは、まさにこのアメリカを筆頭とする欧米諸国による日本排除がもたらした出来事だったのである。

 『対日経済封鎖』の著者である池田美智子氏は、「特に発展途上諸国へ工業製品を輸出していた先進諸国にとっては、日本の登場はその市場への“侵略”と見なされた。先進諸国のうち世界のその時点での現状維持(スティタスクオ)こそ『正しい』と、信ずる国の眼には、日本は暗黙裡にその既得権益と市場の秩序を破壊する“侵略者”と感じられた。

……かくて欧米諸国の海外市場とその植民地および属領などは、日本からの輸出品に対して厳しい規制をかけていく。……世界的な保護主義の嵐がふきすさぶ中で、日本は追われ追われて、ついには外貨を稼ぐ市場すら探すことができなくなった」と指摘している。

 これらの結果、昭和元(一九二五)年から昭和十二(一九三七)年までの十二年間の日本の主要貿易諸国への輸出シェアの趨勢を見れば、アメリカ向け輸出が日本の総輸出の四二%から二○%へと低下している。

さらにアメリカを後ろ盾とする反日運動が荒れ狂っていた中国本土向けが二○%から五%へとそのシェアを激減させているのである。

 このほか、香港、フランス領のベトナム、イギリス領のマレーシア、イギリス領のビルマ、オランダ領のインドネシアなどの国および植民地向けの合計シェアは、昭和元年の時期に日本の総輸出の七六・三%だったのが、四三・六%へと縮小した。

 次に生起したのが、第二段階となる支那事変以降における直接的対日経済制裁である。

?航空機の輸出禁止
  
日本が支那事変において蒋介石政権を中国奥地の重慶に追い詰めた昭和十三年(一九三八)、アメリカは日本に対する経済上の差別待遇からさらに経済制裁へと踏み切った。昭和十四年(一九三九)一月に航空機および航空機の部品、十二月には航空機用のガソリンに関する禁輸を行ったのである。

?日米通商航海条約の破棄
  
昭和十四年七月、アメリカは、日米通商航海条約の破棄を通告した。直接の背景は、次のとおりである。日本が支援し新たに誕生した汪兆銘政権の役人がイギリス租界で暗殺されたことを受けて、事件調査に非協力的なイギリスへの反発から陸軍がイギリス租界を封鎖する事件が発生した。

しかし日英両国は外交交渉によって問題を解決したのである。すると依然から米英共同しての対日経済制裁を模索していたアメリカは、イギリスが日本に妥協したとして反発し、日米通商航海条約という平和的な日米貿易関係を否定する政策をうってでたのである。

?くず鉄の輸出禁止
  
わが国は支那事変解決のための方策として、蒋介石政権へのいわゆる「援蒋ルート」遮断を目指していた。昭和十五年(一九四〇)九月、仏印政府との協定に基づいて北部仏印に進駐した。

この協定により、「援蒋ルート」遮断が決定した。これに対してアメリカは、この協定を「威圧により達成された行為」と断定して不承認を宣言した上で、十月十六日には、くず鉄の全面輸出禁止に踏み切ったのである。アメリカは、わが国の鉄鋼生産能力への打撃を狙ったのである。

?在米日本資産凍結および石油の全面禁輸
  昭和十六年七月、日本は仏印政府との間での交渉に基づく南部仏印進駐に踏み切った。「援蒋ルート」遮断とオランダとの石油確保交渉のためである。当時、アメリカは、オランダに圧力をかけて、日本の蘭印(オランダ領インドネシア)からの石油買い付けを阻止しようとした。

蘭印の石油会社は、英米両国の資本によって経営されており、オランダはアメリカの意向
にしたがっていた。このため、日本政府は、南部仏印進駐によってオランダに圧力をかけるしか方策はないと考えたのである。

これに対して、アメリカは日本の南部仏印進駐に対して、在米の対日資産を凍結し、石油の全面禁輸に踏み切った。これにはイギリス、オランダも追随し、いわゆるABCD包囲網が完成したのである。

 このようにアメリカの対日経済制裁を段階ごとに整理すると、日本が支那事変において有利な立場を確保しようとするたびごとにアメリカの経済制裁が強化されていることがわかる。

 昭和天皇がアメリカの対日石油全面禁止措置について、「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考えが決定的になったのは自然の理と云わねばならぬ」と述べておられる。(椛島)

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