今日は何の日 3月19日 681年(天武天皇10年2月25日) - 天武天皇が飛鳥浄御原令の制定を命ずる。

飛鳥浄御原令こそが、「律令国家が形成される時期の生気ある若々しい」(山川『詳説 日本史』p.34)時代のイメージを持たせるキーワードなのではないか。
そして律令国家形成とは何を目指そうとしていたのかという全体のイメージを持てば、「憲法十七条」はのちの官僚制的な中央集権体制の方向に一歩をすすめたものといえる。
589年に隋が南北朝を統一し、高句麗などの周辺地域に進出しはじめたことが、東アジアに激動の時代をもたらし、日本を含む周辺諸国は、国際的緊張のもと国家組織の形成をせまられた。
隋は、均田制・租庸調制・府兵制により財政・軍事の基礎をかためようとし、儒学の試験によってひろく人材を求める科挙の制度をつくって中央集権化をはかった。そして唐は、隋の制度をうけつぎ、それを律・令・格・式の法制にもとづく整然とした体系につくりあげた。



飛鳥浄御原令こそが、「律令国家が形成される時期の生気ある若々しい」(山川『詳説 日本史』p.34)時代のイメージを持たせるキーワードなのではないか。
そして律令国家形成とは何を目指そうとしていたのかという全体のイメージを持てば、「憲法十七条」はのちの官僚制的な中央集権体制の方向に一歩をすすめたものといえる。
589年に隋が南北朝を統一し、高句麗などの周辺地域に進出しはじめたことが、東アジアに激動の時代をもたらし、日本を含む周辺諸国は、国際的緊張のもと国家組織の形成をせまられた。
隋は、均田制・租庸調制・府兵制により財政・軍事の基礎をかためようとし、儒学の試験によってひろく人材を求める科挙の制度をつくって中央集権化をはかった。そして唐は、隋の制度をうけつぎ、それを律・令・格・式の法制にもとづく整然とした体系につくりあげた。


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■憲法改正の早期実現を求める国会議員署名について
賛同国会議員441名(10月18日現在)
■憲法改正の早期実現を求める意見書採択について
地方議会にて36都府県 /59市区町村
■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野
■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決
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初代司法卿 江 藤 新 平
今日は何の日 3月18日 1834年(天保5年2月9日) - 江藤新平の生誕日

江藤新平は,天保5年(1834),佐賀藩下級藩士の長男として出生し,16歳で藩校弘道館に入学して猛烈に勉強に励んだ。
そして,副島種臣の兄で,尊王攘夷論を唱道していた枝吉神陽に傾倒し,神陽が結成した「義祭同盟」に,大隈重信(内閣総理大臣を2回歴任,早稲田大学創立者),副島種臣 (外務卿,書家),大木喬任(初代文部卿,第2代司法卿)らとともに参加した。
その後,時勢の変遷を的確に見据えた新平は,開国通商による富国強兵を主張するに至り,23歳の時に作成した意見書「図海策」では,民衆生活の尊重を立論の根拠とした実に適切な意見を理路整然と展開している。
その後時局が混乱を極める中,28歳の時に国禁を破り脱藩し京都に向かい,長州藩桂小五郎や伊藤博文,公卿姉小路少将公知と接触する等,積極的に京都の情勢視察を行い「京都見聞」を著した。
帰国後,前藩主鍋島直正の厚情により死罪を免れ永蟄居(無期限謹慎)の刑に処せられたが,慶応3年(1867:33歳)の大政奉還を機に直ちに赦免され,京都に急行して政治の表舞台に飛び出し,佐賀藩のために尽くした。

江藤新平写真 前列右から3人目
前列右から3人目が江藤新平。司法省高官とともに
【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】

今日は何の日 3月18日 1834年(天保5年2月9日) - 江藤新平の生誕日

江藤新平は,天保5年(1834),佐賀藩下級藩士の長男として出生し,16歳で藩校弘道館に入学して猛烈に勉強に励んだ。
そして,副島種臣の兄で,尊王攘夷論を唱道していた枝吉神陽に傾倒し,神陽が結成した「義祭同盟」に,大隈重信(内閣総理大臣を2回歴任,早稲田大学創立者),副島種臣 (外務卿,書家),大木喬任(初代文部卿,第2代司法卿)らとともに参加した。
その後,時勢の変遷を的確に見据えた新平は,開国通商による富国強兵を主張するに至り,23歳の時に作成した意見書「図海策」では,民衆生活の尊重を立論の根拠とした実に適切な意見を理路整然と展開している。
その後時局が混乱を極める中,28歳の時に国禁を破り脱藩し京都に向かい,長州藩桂小五郎や伊藤博文,公卿姉小路少将公知と接触する等,積極的に京都の情勢視察を行い「京都見聞」を著した。
帰国後,前藩主鍋島直正の厚情により死罪を免れ永蟄居(無期限謹慎)の刑に処せられたが,慶応3年(1867:33歳)の大政奉還を機に直ちに赦免され,京都に急行して政治の表舞台に飛び出し,佐賀藩のために尽くした。

江藤新平写真 前列右から3人目
前列右から3人目が江藤新平。司法省高官とともに
【佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵】

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今日は何の日 3月17日 1959年 - チベット蜂起: ダライラマ14世テンジン・ギャツォがチベットからインドへ逃れる。

ダライラマ14世テンジン・ギャツォ
転生者の発見

現在のダライ・ラマ法王14世は、1935年7月6日、チベット東北部アムド地方のタクツェルという小村で貧しい農家の子として生まれた。この活発で可愛いらしい2歳の幼児ラモ・トゥンドゥプが、先代ダライ・ラマ13世の生まれ変わりと認められたのである。
1939年、4歳になった生まれ変わりの子供は、チベットの首都ラサへ迎えられる。翌年には、ダライ・ラマ14世として正式に即位し、ポタラ宮の玉座に着く。その際、名前もテンジン・ギャツォと改めた。
ダライ・ラマ法王は、6歳のときから僧院教育を受け始め、24歳のとき仏教哲学の最終試験を受けた。この試験は、毎年チベット暦の正月に実施される祈願大祭の期間中、ラサのチョカン寺で行われるもので、これに優秀な成績をもって合格。ゲシェー・ララムパという仏教哲学最高位の博士号を取得することになる。

ダライラマ14世テンジン・ギャツォ
転生者の発見

現在のダライ・ラマ法王14世は、1935年7月6日、チベット東北部アムド地方のタクツェルという小村で貧しい農家の子として生まれた。この活発で可愛いらしい2歳の幼児ラモ・トゥンドゥプが、先代ダライ・ラマ13世の生まれ変わりと認められたのである。
1939年、4歳になった生まれ変わりの子供は、チベットの首都ラサへ迎えられる。翌年には、ダライ・ラマ14世として正式に即位し、ポタラ宮の玉座に着く。その際、名前もテンジン・ギャツォと改めた。
ダライ・ラマ法王は、6歳のときから僧院教育を受け始め、24歳のとき仏教哲学の最終試験を受けた。この試験は、毎年チベット暦の正月に実施される祈願大祭の期間中、ラサのチョカン寺で行われるもので、これに優秀な成績をもって合格。ゲシェー・ララムパという仏教哲学最高位の博士号を取得することになる。
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今日は何の日 3月16日 1885年 - 『時事新報』の社説として福沢諭吉の脱亜論が掲載される。

『脱亜論』(だつあろん)と一般に呼ばれるようになった論説は、もともとは新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説のことである。
1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、以来福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。
1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に言及した文献は発見されていない。発見されている最初の文献は翌1951年(昭和26年)11月に歴史家の遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。
「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代後半である



『脱亜論』(だつあろん)と一般に呼ばれるようになった論説は、もともとは新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説のことである。
1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、以来福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。
1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に言及した文献は発見されていない。発見されている最初の文献は翌1951年(昭和26年)11月に歴史家の遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。
「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代後半である


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1939年 - 全国の招魂社を護国神社に改称

桜山招魂場(旧称 桜山招魂社)は、山口県で最初に創建された招魂社です。それ以上に、実は日本で最初に招魂社として建てられた招魂社なのです。
招魂社(しょうこんしゃ)は明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した英霊を奉祀した各地の神社。
東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称。地方の招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称。
そういういきさつがあるので、明治末期になっても靖国神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていた(夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に幼い娘の発言に「招魂社」が登場する)。
また、日本初の招魂社は櫻山招魂場(現・櫻山神社、慶応元年(1865年)8月、山口県下関市)である。
王朝時代には、死者に対する陰陽道の招魂祭(しょうこんのまつり)は禁止されていた。死者・生者に対する神道儀礼は鎮魂祭と称されていた。
靖国神社の旧称「東京招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する[1]」可能性があるために廃されたという。ただし、名称変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。

靖国神社(やすくにじんじゃ、九段坂上、千代田、東京、google画像) 靖国神社(明治2年6月、東京招魂社から靖国神社に改称): http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/06/post_83.html.

殉国七士廟(じゅんこくななしびょう、三ヶ根山の山頂、幡豆、愛知、google画像) 殉国七士廟(ぶらり重兵衞の歴史探訪: http://www.geocities.jp/bane2161/jyunkoku7si.html.

桜山招魂場(旧称 桜山招魂社)は、山口県で最初に創建された招魂社です。それ以上に、実は日本で最初に招魂社として建てられた招魂社なのです。
招魂社(しょうこんしゃ)は明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した英霊を奉祀した各地の神社。
東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称。地方の招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称。
そういういきさつがあるので、明治末期になっても靖国神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていた(夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に幼い娘の発言に「招魂社」が登場する)。
また、日本初の招魂社は櫻山招魂場(現・櫻山神社、慶応元年(1865年)8月、山口県下関市)である。
王朝時代には、死者に対する陰陽道の招魂祭(しょうこんのまつり)は禁止されていた。死者・生者に対する神道儀礼は鎮魂祭と称されていた。
靖国神社の旧称「東京招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する[1]」可能性があるために廃されたという。ただし、名称変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。

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今日は何の日 3月14日 明治32(1899)年 - 正岡子規が根岸短歌会を創始。

明治33年12月子規最後の写真
1867年(慶応3年)、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれる。幼名は升(のぼる)。
父隼太は早世するが、母は藩儒大原観山の長女で、文学的芸術的な系統を受けて、5歳にして素読を学び、11歳で絵を学び、その時代には既に異色のある児童として認められていた。
勝山学校時代には竹馬の友・秋山真之と出会う。
松山中学在学中に、自由民権運動の影響を受けて政治家を志すが、好奇心と探究心が旺盛な子規にとって、松山という田舎では満足せず、1883年(明治16年)に松山中学を中退して上京。 秋山真之と共に東京大学予備門に合格するために英語を習った共立学校では高橋是清に教えを受ける。
それでも子規は英語は苦手のままであったが、運良く大学予備門に受かり、そこで生涯の友・夏目漱石と知り合う。快適な書生生活であったが、とつぜん秋山真之がひとり大学予備門を退学し、海軍の道へとすすんでゆく。今生の別れを意識し、子規は落胆する。




明治33年12月子規最後の写真
1867年(慶応3年)、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれる。幼名は升(のぼる)。
父隼太は早世するが、母は藩儒大原観山の長女で、文学的芸術的な系統を受けて、5歳にして素読を学び、11歳で絵を学び、その時代には既に異色のある児童として認められていた。
勝山学校時代には竹馬の友・秋山真之と出会う。
松山中学在学中に、自由民権運動の影響を受けて政治家を志すが、好奇心と探究心が旺盛な子規にとって、松山という田舎では満足せず、1883年(明治16年)に松山中学を中退して上京。 秋山真之と共に東京大学予備門に合格するために英語を習った共立学校では高橋是清に教えを受ける。
それでも子規は英語は苦手のままであったが、運良く大学予備門に受かり、そこで生涯の友・夏目漱石と知り合う。快適な書生生活であったが、とつぜん秋山真之がひとり大学予備門を退学し、海軍の道へとすすんでゆく。今生の別れを意識し、子規は落胆する。



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金子堅太郎・日露戦争でルーズベルトを説得し全米を味方にした驚異の外交力
今日は何の日 3月13日 1853年(嘉永6年2月4日) - 金子堅太郎の生誕日

金子工作はどのようにおこなわれたか
明治三十七(1904)年二月四日タ、日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文(当時・枢密院議長)は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。
伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。金子はこの時51歳であった。
金子は旧福岡藩士で明治4年、岩倉遺外使節団で渡米し、11年にハーバード大学法科大学を卒業、セオドアリレーズベルト米大統領(在任1901-1909)とは同窓生で、以来二十数年、交友を深めていた。

嘉永6年(1853年)生る。藩学修猷館を出た後、明治4年(1871年)黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に留学。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に最も大きな功績を残した。また、ハーバードの学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露講和に奮迅の活躍をした。九州大学の誘致、八幡製鉄所の設置、さらには「福岡県立英語専修修猷館」再興の大恩人である
今日は何の日 3月13日 1853年(嘉永6年2月4日) - 金子堅太郎の生誕日

金子工作はどのようにおこなわれたか
明治三十七(1904)年二月四日タ、日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文(当時・枢密院議長)は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。
伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。金子はこの時51歳であった。
金子は旧福岡藩士で明治4年、岩倉遺外使節団で渡米し、11年にハーバード大学法科大学を卒業、セオドアリレーズベルト米大統領(在任1901-1909)とは同窓生で、以来二十数年、交友を深めていた。

嘉永6年(1853年)生る。藩学修猷館を出た後、明治4年(1871年)黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に留学。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に最も大きな功績を残した。また、ハーバードの学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露講和に奮迅の活躍をした。九州大学の誘致、八幡製鉄所の設置、さらには「福岡県立英語専修修猷館」再興の大恩人である
■憲法改正の早期実現を求める国会議員署名について
賛同国会議員441名(10月18日現在)
■憲法改正の早期実現を求める意見書採択について
地方議会にて36都府県 /59市区町村
■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野
■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決
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今日は何の日 3月12日 1974年 - 小野田寛郎がフィリピン・ルバング島から30年ぶりに日本に帰還。




http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p55b941eccd48d9b3f4883f9125d96f92
大正11年、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得。
なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し兵科将校(陸軍少尉)となる等、これら兄弟は何れも現役の陸軍将校であった。




http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p55b941eccd48d9b3f4883f9125d96f92
大正11年、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得。
なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し兵科将校(陸軍少尉)となる等、これら兄弟は何れも現役の陸軍将校であった。
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今日は何の日 3月11日 昭和17(1942)年 - 第二次世界大戦・フィリピンの戦い :マッカーサー将軍がコレヒドール島から退却
1941年から1942年のフィリピンの戦い(1941年12月8日~1942年5月10日)は、大東亜戦争緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦である。

本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。
しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。
45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

1941年から1942年のフィリピンの戦い(1941年12月8日~1942年5月10日)は、大東亜戦争緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦である。

本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。
しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。
45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

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今日は何の日 3月10日 1959年 - チベット蜂起―ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日

1959年のチベット蜂起が始まったのは、1951年以来中国共産党の支配下にあったチベット自治区の中心都市ラサで、1959年3月10日に反中国・反共産主義の民衆暴動が勃発したときのことであった。
この蜂起の日は、チベットの独立運動団体の多くによって、チベット蜂起記念日(チベット民族蜂起記念日)として祝われている。
1950年代後半、ラサではチベットにおける中国のプレゼンスへの反発が高まっていた[2]。1956年には、カムやアムド地方でチベット人による武装反乱が始まり、その結果チベット東部には人民解放軍が増派されることになった。
人民解放軍はチベットの村や僧院に対して制裁攻撃を加えた。人民解放軍の司令官は、反乱するゲリラ部隊を屈服させるため、「ポタラ宮やダライ・ラマ14世を爆撃する」との脅しも行った。
3月1日、ダライ・ラマ14世のもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが届いた[2]。ゲシェ・ラランバの学位をとるために勉強中だったダライ・ラマ14世は、当初その会合を延期したが、最終的には3月10日に日付が設定された。
3月9日になると、ダライ・ラマ14世のボディガードの代表のところに、人民解放軍陸軍の将校たちがやってきた。将校たちは、伝統からは外れるがダライ・ラマ14世が観劇の際に従来の武装警備隊を同行させないこと、宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求した。
この招待の言葉はラサにいるチベット人たちにも伝わり、「中国がダライ・ラマ14世の誘拐をたくらんでいるのでは」という彼らの恐怖心に火がついた。
3月10日には約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が宮殿を出る、もしくは連れ出されることを防ぐため、宮殿を取り囲んだ。人民解放軍と市外のゲリラとの間では前年の12月にも小ぜり合いがあったものの、一般にはこの日の事件がラサ蜂起の始まりとされている[2]。
ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日―FREEDOM IN EXILE「ダライ・ラマ自伝」より
・・・夏の最中にカムとアムド全地域が公然たる戦闘状態に突入した。ゴンポ・タシという指導者に率いられた解放戦士は日に日に数を増し、中国側に対する襲撃は大胆さを強めていった。
中国軍も容赦なく反撃し、町や村は爆撃、砲撃によって広い地域が廃墟と化した。そのため数千にのぼる難民がラサに逃げ込み、市の外の空き地にキャンプを張った。人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだった。
1959年に、国際法曹家委員会が出した報告書を読み、私の耳にしたことがやはり本当であったことをやっと受け入れたくらいだ。
磔、生体解剖、腹を裂き内臓を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、焙り殺し、撲殺、生き埋め、馬で引きずり回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残虐さは枚挙にいとまがなかった。
処刑の最中に「ダライ・ラマ万歳」と叫べないよう舌を引き抜いたりもした。
中国当局から間接的に連絡があり、私がいつ観劇に来られるか正確な日取りを教えろと言ってきた。わたしは3月10日が都合がいいと伝えた。
観劇の前日、中国人将校が私の親衛隊長の家にやってきて、軍事顧問であるフー旅団長との会見のため旅団司令部に同道して欲しいと言われたと告げた。明晩の観劇について打ち合わせがしたいというのである。
親衛隊長が出向くと旅団長はこう切り出した。中国当局は、いつものような形式ばった訪問儀礼を省きたいと思っている、と。
そしてチベット兵は連れてくるな、どうしても必要というのなら、2、3人の丸腰の護衛だけにしろと主張し、すべては極秘で運びたいと告げた。
何もかも胡散臭く思われ、私の側近たちはあれこれ討議したが、結局招待を断れば、非常に憂慮すべき結果となりかねない約束違反を問われずに済むまいということになった。で、仕方なく事を荒立てないよう一握りのお供だけで行くことに同意した。
(省略)
私の行動を秘密にしておくことはもともと不可能であり、中国当局がそれを強制しているという事実は、わたしの安否を非常に気遣っている市民に大きなショックを与え、そのニュースは燎原の火のようにたちまち町中に広まった。
結果は破局的であった。翌朝、祈祷と朝食を終え、早朝の静かな朝の光を浴び、庭園に散歩に出た私は、遠くから上がる叫び声に驚かされた。すぐ邸内に入り、人をやって喚声が何なのか調べさせた。
帰って来た使いは、ラサ市内に人が溢れ、こちらに向かっている。彼らは中国人の手から私を直接守ろうと決心しているようだと報告した。人数が次第に増え、あるものは1団となって離宮の入り口を固め、あるものは周囲をパトロールし始め、昼までにはその数はおよそ30,000人にも達していた。


3月10日には約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が宮殿を出る、もしくは連れ出されることを防ぐため、宮殿を取り囲んだ。

1959年のチベット蜂起が始まったのは、1951年以来中国共産党の支配下にあったチベット自治区の中心都市ラサで、1959年3月10日に反中国・反共産主義の民衆暴動が勃発したときのことであった。
この蜂起の日は、チベットの独立運動団体の多くによって、チベット蜂起記念日(チベット民族蜂起記念日)として祝われている。
1950年代後半、ラサではチベットにおける中国のプレゼンスへの反発が高まっていた[2]。1956年には、カムやアムド地方でチベット人による武装反乱が始まり、その結果チベット東部には人民解放軍が増派されることになった。
人民解放軍はチベットの村や僧院に対して制裁攻撃を加えた。人民解放軍の司令官は、反乱するゲリラ部隊を屈服させるため、「ポタラ宮やダライ・ラマ14世を爆撃する」との脅しも行った。
3月1日、ダライ・ラマ14世のもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが届いた[2]。ゲシェ・ラランバの学位をとるために勉強中だったダライ・ラマ14世は、当初その会合を延期したが、最終的には3月10日に日付が設定された。
3月9日になると、ダライ・ラマ14世のボディガードの代表のところに、人民解放軍陸軍の将校たちがやってきた。将校たちは、伝統からは外れるがダライ・ラマ14世が観劇の際に従来の武装警備隊を同行させないこと、宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求した。
この招待の言葉はラサにいるチベット人たちにも伝わり、「中国がダライ・ラマ14世の誘拐をたくらんでいるのでは」という彼らの恐怖心に火がついた。
3月10日には約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が宮殿を出る、もしくは連れ出されることを防ぐため、宮殿を取り囲んだ。人民解放軍と市外のゲリラとの間では前年の12月にも小ぜり合いがあったものの、一般にはこの日の事件がラサ蜂起の始まりとされている[2]。
ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日―FREEDOM IN EXILE「ダライ・ラマ自伝」より
・・・夏の最中にカムとアムド全地域が公然たる戦闘状態に突入した。ゴンポ・タシという指導者に率いられた解放戦士は日に日に数を増し、中国側に対する襲撃は大胆さを強めていった。
中国軍も容赦なく反撃し、町や村は爆撃、砲撃によって広い地域が廃墟と化した。そのため数千にのぼる難民がラサに逃げ込み、市の外の空き地にキャンプを張った。人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだった。
1959年に、国際法曹家委員会が出した報告書を読み、私の耳にしたことがやはり本当であったことをやっと受け入れたくらいだ。
磔、生体解剖、腹を裂き内臓を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、焙り殺し、撲殺、生き埋め、馬で引きずり回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残虐さは枚挙にいとまがなかった。
処刑の最中に「ダライ・ラマ万歳」と叫べないよう舌を引き抜いたりもした。
中国当局から間接的に連絡があり、私がいつ観劇に来られるか正確な日取りを教えろと言ってきた。わたしは3月10日が都合がいいと伝えた。
観劇の前日、中国人将校が私の親衛隊長の家にやってきて、軍事顧問であるフー旅団長との会見のため旅団司令部に同道して欲しいと言われたと告げた。明晩の観劇について打ち合わせがしたいというのである。
親衛隊長が出向くと旅団長はこう切り出した。中国当局は、いつものような形式ばった訪問儀礼を省きたいと思っている、と。
そしてチベット兵は連れてくるな、どうしても必要というのなら、2、3人の丸腰の護衛だけにしろと主張し、すべては極秘で運びたいと告げた。
何もかも胡散臭く思われ、私の側近たちはあれこれ討議したが、結局招待を断れば、非常に憂慮すべき結果となりかねない約束違反を問われずに済むまいということになった。で、仕方なく事を荒立てないよう一握りのお供だけで行くことに同意した。
(省略)
私の行動を秘密にしておくことはもともと不可能であり、中国当局がそれを強制しているという事実は、わたしの安否を非常に気遣っている市民に大きなショックを与え、そのニュースは燎原の火のようにたちまち町中に広まった。
結果は破局的であった。翌朝、祈祷と朝食を終え、早朝の静かな朝の光を浴び、庭園に散歩に出た私は、遠くから上がる叫び声に驚かされた。すぐ邸内に入り、人をやって喚声が何なのか調べさせた。
帰って来た使いは、ラサ市内に人が溢れ、こちらに向かっている。彼らは中国人の手から私を直接守ろうと決心しているようだと報告した。人数が次第に増え、あるものは1団となって離宮の入り口を固め、あるものは周囲をパトロールし始め、昼までにはその数はおよそ30,000人にも達していた。


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広田弘毅 ~ 黙して逝った「A級戦犯」
今日は何の日 3月8日昭和11(1936)年 - 日本で廣田弘毅が第32代内閣総理大臣に就任し、廣田内閣が発足。

広田の死刑宣告に、キーナン首席検事も、「なんというバカげた判決か」と慨嘆した。
■1.「なんというバカげた判決か」■
昭和23(1948)年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷で、ウェッブ裁判長が各被告に対する刑の宣告を行った。アルファベット順で広田弘毅は6番目に呼ばれた。憲兵に連れられ、入廷して被告席に立つ。イヤホンをつけ、うすく目を閉じて聞く。
「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」 広田はイヤホンをはずし、いつものように記者席の隅の二人の娘に微笑を送って立ち去った。法廷内は一瞬、異様な緊張に静まりかえったあと、ざわめきだした。

今日は何の日 3月8日昭和11(1936)年 - 日本で廣田弘毅が第32代内閣総理大臣に就任し、廣田内閣が発足。

広田の死刑宣告に、キーナン首席検事も、「なんというバカげた判決か」と慨嘆した。
■1.「なんというバカげた判決か」■
昭和23(1948)年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷で、ウェッブ裁判長が各被告に対する刑の宣告を行った。アルファベット順で広田弘毅は6番目に呼ばれた。憲兵に連れられ、入廷して被告席に立つ。イヤホンをつけ、うすく目を閉じて聞く。
「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」 広田はイヤホンをはずし、いつものように記者席の隅の二人の娘に微笑を送って立ち去った。法廷内は一瞬、異様な緊張に静まりかえったあと、ざわめきだした。

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今日は何の日 3月8日 1944年 - 第二次世界大戦:インパール作戦が始まる。
![]qh@a](https://blog-imgs-134-origin.fc2.com/p/r/i/prideofjapan/20200308081222f5a.jpg)
作戦を指導した牟田口中将
大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現在名ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦したが補給の不備で果たさず、空と地から英国軍の反攻を受けつつ退却した。
負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患し、退却途中で大半が力つきて、退路には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、白骨街道と呼ばれた。
生還した兵の記録に次のようなものがある。


![]qh@a](https://blog-imgs-134-origin.fc2.com/p/r/i/prideofjapan/20200308081222f5a.jpg)
作戦を指導した牟田口中将
大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現在名ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦したが補給の不備で果たさず、空と地から英国軍の反攻を受けつつ退却した。
負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患し、退却途中で大半が力つきて、退路には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、白骨街道と呼ばれた。
生還した兵の記録に次のようなものがある。
「白骨街道生死の境」小田敦巳
道ばたに腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。手榴弾を抱いたまま爆死し、腸わたが飛び散り鮮血が流れ出したばかりのものもある。たいてい傍らに飯盒と水筒が置いてある。
ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。地獄とは、まさにこんなところか。
・・・ その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。屍を辿った方向が分かるのだ。皆これを白骨街道と呼んだ。屍の道標を頼りに歩いた。


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今日は何の日 3月7日 1866年(慶応2年1月21日) - 薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。

長州藩が恭順の意を示したとはいえ、幕府にとって西郷や徳川慶勝が下した処分は、余りにも軽いものと感じられました。これは幕府の驕りにもよるものですが、そんな幕府はまたもや諸藩に対し、長州再征の準備を進めるよう命じたのです。
長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行なおうとする幕府の方針に対し、西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめました。
このような幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士・土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん。後の久元)と同藩士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えました。
土方と中岡は、同じ土佐藩士の坂本龍馬(さかもとりょうま)にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出したのです。



長州藩が恭順の意を示したとはいえ、幕府にとって西郷や徳川慶勝が下した処分は、余りにも軽いものと感じられました。これは幕府の驕りにもよるものですが、そんな幕府はまたもや諸藩に対し、長州再征の準備を進めるよう命じたのです。
長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行なおうとする幕府の方針に対し、西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめました。
このような幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士・土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん。後の久元)と同藩士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えました。
土方と中岡は、同じ土佐藩士の坂本龍馬(さかもとりょうま)にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出したのです。


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■憲法改正の早期実現を求める国会議員署名について
賛同国会議員441名(10月18日現在)
■憲法改正の早期実現を求める意見書採択について
地方議会にて36都府県 /59市区町村
■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野
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今日は何の日 3月6日 昭和17(1942)年 - 第二次世界大戦: 海軍省が、真珠湾攻撃で戦死した特別攻撃隊員9人を軍神として顕彰。

真珠湾攻撃には、この特殊潜航艇が加わっています。(江田島自衛隊幹部学校中庭にて)
全長24メートル、二人乗り、二発の魚雷を装備、この特殊潜航艇は、真珠湾入り口から10kmから20kmに迫った親潜水艦から発進し、当時五隻が参加しています。
二隻は湾内へ潜入して攻撃に成功したと伝えられています。
乗組員10人のうち九人は戦死しましたが、一名は捕虜の第一号となったため残りの九人が軍神として讃えられました。


真珠湾攻撃には、この特殊潜航艇が加わっています。(江田島自衛隊幹部学校中庭にて)
全長24メートル、二人乗り、二発の魚雷を装備、この特殊潜航艇は、真珠湾入り口から10kmから20kmに迫った親潜水艦から発進し、当時五隻が参加しています。
二隻は湾内へ潜入して攻撃に成功したと伝えられています。
乗組員10人のうち九人は戦死しましたが、一名は捕虜の第一号となったため残りの九人が軍神として讃えられました。

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今日は何の日 3月5日
1946年 - ウィンストン・チャーチル英首相が米ミズーリ州でソ連を非難する「鉄のカーテン」の演説を行う。冷戦の始まり。

冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。
主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリン、イギリス・ウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。
戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。
1946年 - ウィンストン・チャーチル英首相が米ミズーリ州でソ連を非難する「鉄のカーテン」の演説を行う。冷戦の始まり。

冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。
主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリン、イギリス・ウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。
戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。
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今日は何の日 3月4日 大塩平八郎の生誕日
大塩 平八郎、1793年3月4日(寛政5年1月22日) - 1837年5月1日(天保8年3月27日))は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱(天保8(1837)年2月19日)を起こした。

天保八年(1837年)二月十九日・八時、春とはまだ、名ばかりの寒い朝でした。大阪の町の人々は、天満の方角に轟いた砲声に驚いて目を覚まします。続いて、はげしい火の手が上がり、おりからの強風にあおられてまたたく間に市中に広がりました。
元大阪町奉行所与力・大塩平八郎が自宅に火を放って、乱を決行したのです。
着込みの野袴に、白木綿のハチマキを巻いた総大将・大塩を先頭に、『天照皇太神宮』『湯武両聖王』『八幡大菩薩』『東照大権現』などと書かれた旗をを持ち、『救民』と大きく染め上げられたのぼりを風になびかせて、集合場所の川崎東照宮から天満橋筋を南下してきます。

大塩檄文(成正寺蔵)

大塩 平八郎、1793年3月4日(寛政5年1月22日) - 1837年5月1日(天保8年3月27日))は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱(天保8(1837)年2月19日)を起こした。

天保八年(1837年)二月十九日・八時、春とはまだ、名ばかりの寒い朝でした。大阪の町の人々は、天満の方角に轟いた砲声に驚いて目を覚まします。続いて、はげしい火の手が上がり、おりからの強風にあおられてまたたく間に市中に広がりました。
元大阪町奉行所与力・大塩平八郎が自宅に火を放って、乱を決行したのです。
着込みの野袴に、白木綿のハチマキを巻いた総大将・大塩を先頭に、『天照皇太神宮』『湯武両聖王』『八幡大菩薩』『東照大権現』などと書かれた旗をを持ち、『救民』と大きく染め上げられたのぼりを風になびかせて、集合場所の川崎東照宮から天満橋筋を南下してきます。

大塩檄文(成正寺蔵)

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今日は何の日 大正10(1921)年 - 日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発。(皇太子裕仁親王の欧州訪問)
裕仁親王の乗艦、戦艦香取
香取の乗組員と裕仁親王(前列中央)。前列左は香取艦長漢那憲和大佐

1921年(大正10年)5月14日、イギリス・オックスフォード大学でボートレースを観戦する裕仁親王
この項目では、1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)がヨーロッパ各国を歴訪した出来事を扱う。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな問題となった。
裕仁親王をヨーロッパに外遊させるという計画は、1919年(大正8年)の秋頃から検討され始めた。裕仁親王は将来の天皇となる身であり、病身である大正天皇の摂政となる可能性も高いと見られていた。
裕仁親王に各国の王室との交友を深めてもらい、見聞を広めてもらうという元老山県有朋が提案したこの計画に、元老松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示した。
ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句[2]を引用して外遊に反対する動きがあった。また大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに反日朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった。
裕仁親王の乗艦、戦艦香取
香取の乗組員と裕仁親王(前列中央)。前列左は香取艦長漢那憲和大佐
1921年(大正10年)5月14日、イギリス・オックスフォード大学でボートレースを観戦する裕仁親王
この項目では、1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)がヨーロッパ各国を歴訪した出来事を扱う。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな問題となった。
裕仁親王をヨーロッパに外遊させるという計画は、1919年(大正8年)の秋頃から検討され始めた。裕仁親王は将来の天皇となる身であり、病身である大正天皇の摂政となる可能性も高いと見られていた。
裕仁親王に各国の王室との交友を深めてもらい、見聞を広めてもらうという元老山県有朋が提案したこの計画に、元老松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示した。
ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句[2]を引用して外遊に反対する動きがあった。また大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに反日朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった。
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今日は何の日 2月22日 明治38(1905)年 - 竹島が島根県に編入される。

【日本における竹島の認知】
1.現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。
竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。
例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)のほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。

昭和28年6月島根県と海上保安庁が合同で建てた領土制札

1905年(明治38年)2月22日島根県告示第40号

【日本における竹島の認知】
1.現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。
竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。
例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)のほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。

昭和28年6月島根県と海上保安庁が合同で建てた領土制札

1905年(明治38年)2月22日島根県告示第40号
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今日は何の日 2月29日 支那事変調査のため、国際連盟のリットン調査団が来日

リットン調査団の満州訪問時期が2、3年ずれていたら
第一章 誰が東アジアに戦乱を呼び込んだのか(4)イギリスはわかっていた
渡部昇一渡部昇一上智大学名誉教授
情報・テキスト
リットン調査団
満洲事変後の1932年に派遣されたリットン調査団の報告書も、日本を厳しく非難していない。また、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の家庭教師だった英国人、レジナルド・ジョンストンの著書『紫禁城の黄昏』には、溥儀が満洲国の元首になるまでの皇帝周辺の事情が克明に記されていた。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第4話。
歴史・民族日本史(大正~現代)
≪全文≫
一方で、イギリスはきちんと情報を分析していた。
そう考えていくと納得できるのだが、満洲事変が起きたあと、昭和7年(1932)に国際連盟がリットン調査団を派遣し、そこには団長であるイギリス人のリットン卿を筆頭に、5カ国から調査委員が加わっているのだが、彼らが作成したリットン報告書も、不思議なことに日本をあまり厳しく非難していないのである。
おそらくリットン卿は、現地における調査を重ね、張作霖爆殺事件や満洲事変における真相を知ったのだろう。だから、
〈問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に対して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。なぜなら満洲においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ〉
(渡部昇一解説・編『全文 リットン報告書』〈ビジネス社〉)
と、リットン報告書は日本の立場をかなり認めているのである。
さらにいえば、リットン調査団が満洲を訪れる2、3年前に、あの『紫禁城の黄昏』が出版されていたら、何の問題も生じなかったと思う。
『紫禁城の黄昏』は、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の家庭教師だったイギリス人、レジナルド・ジョンストンの著書である。
ジョンストンは当時の世界的なシナ学者で、溥儀は彼を非常に信頼していた。ジョンストンは、昭和9年(1934)に出版された同書に、家庭教師時代から溥儀が満洲国の元首になるまでの皇帝周辺の事情や、清朝、中華民国における歴史的な動きなどを記している。
大正十三年(一九二四)に軍閥の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が起こしたクーデター(北京政変)により、溥儀は紫禁城を追われて北京内城にある醇親(じゅんしん)王府(北府)に住んでいた。ところが憑玉祥が北府に軍隊を差し向けてくる恐れも出てきたため、溥儀は、砂塵朦々(さじんもうもう)として警戒がゆるんだ風の日に、このイギリス人の家庭教師と一緒に逃げた。実は、そこが日本公使館なのである。
日本公使は当惑しながらも、溥儀一行を丁重に処遇した。その前後の事情を誰よりも熟知しているのがジョンストンである。彼は、
〈私はまず日本公使館へ向かった。そうしたのは、すべての外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ〉
(R・F・ジョンストン、中山理訳、渡部昇一監修『紫禁城の黄昏 下』〈祥伝社黄金文庫〉)
と書いている。
ジョンストンはまた、溥儀は紫禁城から追われたことも含め、「最も凶暴な敵に対してでさえ、今までただの一言も怒りや不平を漏らしたことがない」とも書いている。巨額の年金をもらえることになっていたこともあるが、しかしある事件をきっかけに「シナに対する皇帝の態度が変化した」という。
〈皇帝と満洲帝室が大惨事に見舞われて、深い悲しみに沈んだのは、私が威海衛にいた頃だった。シナ人の先祖崇拝や、漢人と満洲人の先祖の墓に対する深い畏敬の念を多少なりとも理解する者でなければ、その嘆きがどれほど深いものか、ほとんど計り知ることはできないだろう。帝室の御陵(北京の東方にある「東陵」)が、1928年7月3日から11日にかけて、破壊され冒瀆(ぼうとく)されたのである〉
(同書)
皇族の霊廟は非常に頑丈につくられていたため、犯人たちは爆薬を使って墓を暴き、宝石や貴重品を略奪した。ところが当局は、特別法廷で下級犯罪者に軽い刑罰を科したにすぎず、高位の軍人を含む首謀者を逮捕することはなかったのだ。
ジョンストンは続けて、
〈その時まで皇帝は、満洲に勢力が結集していることは知っていたものの、独立運動にはまったく関与していなかった。また、皇帝自身が先祖の故郷の満洲へ戻るよう誘われる可能性についても、まともに考えたこともなかった。(中略)だが、(中略)それまで自国と先祖を辱はずかしめたシナに向いていた顔を、3百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、満洲を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ〉
(同書)
とも書いている。

リットン調査団の満州訪問時期が2、3年ずれていたら
第一章 誰が東アジアに戦乱を呼び込んだのか(4)イギリスはわかっていた
渡部昇一渡部昇一上智大学名誉教授
情報・テキスト
リットン調査団
満洲事変後の1932年に派遣されたリットン調査団の報告書も、日本を厳しく非難していない。また、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の家庭教師だった英国人、レジナルド・ジョンストンの著書『紫禁城の黄昏』には、溥儀が満洲国の元首になるまでの皇帝周辺の事情が克明に記されていた。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第4話。
歴史・民族日本史(大正~現代)
≪全文≫
一方で、イギリスはきちんと情報を分析していた。
そう考えていくと納得できるのだが、満洲事変が起きたあと、昭和7年(1932)に国際連盟がリットン調査団を派遣し、そこには団長であるイギリス人のリットン卿を筆頭に、5カ国から調査委員が加わっているのだが、彼らが作成したリットン報告書も、不思議なことに日本をあまり厳しく非難していないのである。
おそらくリットン卿は、現地における調査を重ね、張作霖爆殺事件や満洲事変における真相を知ったのだろう。だから、
〈問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に対して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。なぜなら満洲においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ〉
(渡部昇一解説・編『全文 リットン報告書』〈ビジネス社〉)
と、リットン報告書は日本の立場をかなり認めているのである。
さらにいえば、リットン調査団が満洲を訪れる2、3年前に、あの『紫禁城の黄昏』が出版されていたら、何の問題も生じなかったと思う。
『紫禁城の黄昏』は、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の家庭教師だったイギリス人、レジナルド・ジョンストンの著書である。
ジョンストンは当時の世界的なシナ学者で、溥儀は彼を非常に信頼していた。ジョンストンは、昭和9年(1934)に出版された同書に、家庭教師時代から溥儀が満洲国の元首になるまでの皇帝周辺の事情や、清朝、中華民国における歴史的な動きなどを記している。
大正十三年(一九二四)に軍閥の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が起こしたクーデター(北京政変)により、溥儀は紫禁城を追われて北京内城にある醇親(じゅんしん)王府(北府)に住んでいた。ところが憑玉祥が北府に軍隊を差し向けてくる恐れも出てきたため、溥儀は、砂塵朦々(さじんもうもう)として警戒がゆるんだ風の日に、このイギリス人の家庭教師と一緒に逃げた。実は、そこが日本公使館なのである。
日本公使は当惑しながらも、溥儀一行を丁重に処遇した。その前後の事情を誰よりも熟知しているのがジョンストンである。彼は、
〈私はまず日本公使館へ向かった。そうしたのは、すべての外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ〉
(R・F・ジョンストン、中山理訳、渡部昇一監修『紫禁城の黄昏 下』〈祥伝社黄金文庫〉)
と書いている。
ジョンストンはまた、溥儀は紫禁城から追われたことも含め、「最も凶暴な敵に対してでさえ、今までただの一言も怒りや不平を漏らしたことがない」とも書いている。巨額の年金をもらえることになっていたこともあるが、しかしある事件をきっかけに「シナに対する皇帝の態度が変化した」という。
〈皇帝と満洲帝室が大惨事に見舞われて、深い悲しみに沈んだのは、私が威海衛にいた頃だった。シナ人の先祖崇拝や、漢人と満洲人の先祖の墓に対する深い畏敬の念を多少なりとも理解する者でなければ、その嘆きがどれほど深いものか、ほとんど計り知ることはできないだろう。帝室の御陵(北京の東方にある「東陵」)が、1928年7月3日から11日にかけて、破壊され冒瀆(ぼうとく)されたのである〉
(同書)
皇族の霊廟は非常に頑丈につくられていたため、犯人たちは爆薬を使って墓を暴き、宝石や貴重品を略奪した。ところが当局は、特別法廷で下級犯罪者に軽い刑罰を科したにすぎず、高位の軍人を含む首謀者を逮捕することはなかったのだ。
ジョンストンは続けて、
〈その時まで皇帝は、満洲に勢力が結集していることは知っていたものの、独立運動にはまったく関与していなかった。また、皇帝自身が先祖の故郷の満洲へ戻るよう誘われる可能性についても、まともに考えたこともなかった。(中略)だが、(中略)それまで自国と先祖を辱はずかしめたシナに向いていた顔を、3百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、満洲を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ〉
(同書)
とも書いている。
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圧倒的に劣勢であった奉天会戦に日本軍が勝利できたのは何故か
1905年 - 日露戦争: 奉天会戦が行われる。3月10日まで。
旅順の攻略を終えた乃木率いる第三軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了している。

旅順遼陽奉天地図
この奉天会戦は日露陸戦最後の大会戦となったのだが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢であった。
日本軍の兵力は約二十五万、火砲約千門に対し、ロシア軍は兵力約三十七万、火砲千二百門。
またロシア軍は砲弾量も圧倒的に日本軍よりも多く、奉天地区には強固な防御陣地を構築していたという。普通に考えれば、日本軍がロシア軍に勝つことは奇跡に近いことであったのだが、なぜ日本軍はこの大戦に勝利することができたのであろうか。

児玉源太郎

しかしこの作戦は圧倒的に兵力の少ない日本軍にとってはかなり危険なものであった。常識的に考えて、ロシア軍を包囲する戦略であるならば、ロシア軍より兵力が多くなければならないだろう。
菊池寛の『大衆明治史』にはこう書かれている。
「…第三者とも言うべき人の批評に、野津大将の第四軍に従軍したドイツのカール親王の従軍記がある。
『日本の左翼軍の迂回前進に伴い、第四軍も自然、左翼を張り出さねばならなくなった。然るに右翼にいる第一軍もますます右翼に延長していくので、第一軍の左翼と、第四軍の右翼との間には少なくとも7キロメートルの隙間が出来た。
而も第四軍はその手許には予備歩兵一連隊、徒歩せる騎兵二連隊、砲兵一大隊しかもっていないのだ。もし露軍がこの隙間を狙って突破して来たら、日本軍はどうなるだろうと、思わず慄然とした。』
と書いている。
要するに、わが包囲陣は全般的に兵力が少なく、しかも所々に綻びが出来ていたのである。露軍に猛烈な戦意があって、随所に突破戦術に出られたら、日本軍は四部五裂の惨状を呈したかもしれないのである。」(『大衆明治史』p.325-326)
ところが、児玉がどこまで考えていたかはともかく、この作戦は成功したのである。それはなぜか。

菊池寛はこう解説している。
「…クロパトキン大将が最も頭痛に病
んだのは、旅順を陥(おと)した乃木軍がどの方面から現われるかという、第三軍の動静だった。第三軍は旅順戦の創痍全く癒えず、必ずしも偉容を張っていたわけではなく、総司令部の松川少将など『総司令部としては第三軍に大きな期待は持っていないよ』などと放言して、乃木の津野田参謀を口惜しがらせたこともあるくらいだ。
しかし、これがロシア軍にしてみれば、あの難攻不落の旅順を陥した兵団だと知れば、大いに警戒を要する相手なのである。
『天帝よ。願わくは、乃木軍の対戦だけは許して下さい』
そう言って、無智なロシア兵が神に祈っているのを見たと、外国従軍記者は書いている。
とにかくクロパトキンは乃木軍については、神経衰弱のようになって、気にしていたのである。そこへ諜報が入った。即ち乃木軍に属する第十一師団の兵隊が右翼(敵の左翼)に現われたというのである。
この斥候の報告は正しかった。たしかに、彼が認めた日本兵の襟の連隊番号は、第三軍の第十一師団に属する連隊だったからである。
これを知ったクロパトキンは、これこそまさに第三軍の主力だと思って、自己の指揮下ににあった予備兵を全部そっちへ移動してしまった。
しかるに、第十一師団は十一師団でも、それは第三軍に属するものではなく、新編成の鴨緑江軍だったのである。つまり鴨緑江軍は奉天戦のために新たに編成されたもので、第三軍から第十一師団を分離させ、これに後備第一師団を加えた二ヶ師団からなる兵団だった。
…果たして日本軍はその方面の鴨緑江軍をまず動かし始めた。その中に第十一師団がある。これぞ乃木軍の主力、というので総予備隊をそっちへ移動したさいに、わが乃木軍は急進また急進、敵の右翼を大きく迂回し、氷雪の野を、戦史に有名な大繞回(にょうかい)運動を敢行し、奉天城を大きく後方から包むという態勢を採ったのである。」(同上書 p.331-332)
クロパトキンが日本軍の北上に気付いたのが2月28日、それが乃木軍であることを知ったのは3月1日だった。そこでクロパトキンは乃木の北上を阻止しようと、最終的には10万以上の大兵力を振り向けたのだが、それほど彼は乃木軍の戦力を過大に評価し恐れていたようだ。乃木の第三軍の兵力は3万8千であったという。
満州軍総司令部は、右を衝いたあと左の乃木軍を動かしてロシア軍を狼狽させたタイミングで、3月1日に一気に中央を突破しようとしたのだが、戦力の優るロシア軍に前進を堅く阻止され、多くの死傷者が出て戦いの見通しが立たなくなった。
この行き詰まりを打開するために、総司令部は乃木の第三軍を東清鉄道南武線に向かって進撃させ、ロシア軍の退路を断つ任務を与えている。ロシア軍は3月6日に乃木軍に大攻勢をかけたのだが、乃木軍は辛うじてロシア軍を撃退した。
そこでクロパトキンは3月7日の夕方に、優勢に戦っていた中央の第一軍と第三軍の戦線を縮少して乃木軍に振り向けている。このクロパトキンの決断が奉天会戦の帰趨を決することになった。3月8日に満州軍総司令部はロシア軍の退却に気付いて、直ちに追撃開始を命令した。
ロシア軍は兵を増やしても乃木軍を撃退することが出来ず、クロパトキンは日本軍に東西より包囲され退路を断たれることを怖れた。9日にはロシア軍の総退却を決意し、10日には最後の激戦が展開されたが、追撃戦では日本軍は砲弾の大半を使い果たしてしまっており、将兵の疲労もあって、敗走するロシア軍に大打撃を与えるには至らなかったという。
1905年 - 日露戦争: 奉天会戦が行われる。3月10日まで。
旅順の攻略を終えた乃木率いる第三軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了している。

旅順遼陽奉天地図
この奉天会戦は日露陸戦最後の大会戦となったのだが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢であった。
日本軍の兵力は約二十五万、火砲約千門に対し、ロシア軍は兵力約三十七万、火砲千二百門。
またロシア軍は砲弾量も圧倒的に日本軍よりも多く、奉天地区には強固な防御陣地を構築していたという。普通に考えれば、日本軍がロシア軍に勝つことは奇跡に近いことであったのだが、なぜ日本軍はこの大戦に勝利することができたのであろうか。

児玉源太郎
日本軍の作戦は児玉源太郎総参謀長が中心となって立案したものだが、このようなものであったという。
「1.まず、最右翼(東側)の鴨緑江軍が動き、ロシア軍総司令官クロパトキンの注意を向け、次いで隣の第一軍の攻撃を開始させ、出来る限り敵の予備軍を右翼に引きよせる。
2.右翼が動き出し敵軍をひきつけるのに成功したならば、最左翼たる第三軍に大きく迂回運動させ、敵の右翼(西側)を脅かし、ロシア軍を牽制する。
3.左右の行動が功を奏するや、中央に位置する第二、第四軍を進出させ中央突破を決行し、勝利を一気に決する。」(岡田幹彦『乃木希助』p.174-175)

しかしこの作戦は圧倒的に兵力の少ない日本軍にとってはかなり危険なものであった。常識的に考えて、ロシア軍を包囲する戦略であるならば、ロシア軍より兵力が多くなければならないだろう。
菊池寛の『大衆明治史』にはこう書かれている。
「…第三者とも言うべき人の批評に、野津大将の第四軍に従軍したドイツのカール親王の従軍記がある。
『日本の左翼軍の迂回前進に伴い、第四軍も自然、左翼を張り出さねばならなくなった。然るに右翼にいる第一軍もますます右翼に延長していくので、第一軍の左翼と、第四軍の右翼との間には少なくとも7キロメートルの隙間が出来た。
而も第四軍はその手許には予備歩兵一連隊、徒歩せる騎兵二連隊、砲兵一大隊しかもっていないのだ。もし露軍がこの隙間を狙って突破して来たら、日本軍はどうなるだろうと、思わず慄然とした。』
と書いている。
要するに、わが包囲陣は全般的に兵力が少なく、しかも所々に綻びが出来ていたのである。露軍に猛烈な戦意があって、随所に突破戦術に出られたら、日本軍は四部五裂の惨状を呈したかもしれないのである。」(『大衆明治史』p.325-326)
ところが、児玉がどこまで考えていたかはともかく、この作戦は成功したのである。それはなぜか。

菊池寛はこう解説している。
「…クロパトキン大将が最も頭痛に病
んだのは、旅順を陥(おと)した乃木軍がどの方面から現われるかという、第三軍の動静だった。第三軍は旅順戦の創痍全く癒えず、必ずしも偉容を張っていたわけではなく、総司令部の松川少将など『総司令部としては第三軍に大きな期待は持っていないよ』などと放言して、乃木の津野田参謀を口惜しがらせたこともあるくらいだ。
しかし、これがロシア軍にしてみれば、あの難攻不落の旅順を陥した兵団だと知れば、大いに警戒を要する相手なのである。
『天帝よ。願わくは、乃木軍の対戦だけは許して下さい』
そう言って、無智なロシア兵が神に祈っているのを見たと、外国従軍記者は書いている。
とにかくクロパトキンは乃木軍については、神経衰弱のようになって、気にしていたのである。そこへ諜報が入った。即ち乃木軍に属する第十一師団の兵隊が右翼(敵の左翼)に現われたというのである。
この斥候の報告は正しかった。たしかに、彼が認めた日本兵の襟の連隊番号は、第三軍の第十一師団に属する連隊だったからである。
これを知ったクロパトキンは、これこそまさに第三軍の主力だと思って、自己の指揮下ににあった予備兵を全部そっちへ移動してしまった。
しかるに、第十一師団は十一師団でも、それは第三軍に属するものではなく、新編成の鴨緑江軍だったのである。つまり鴨緑江軍は奉天戦のために新たに編成されたもので、第三軍から第十一師団を分離させ、これに後備第一師団を加えた二ヶ師団からなる兵団だった。
…果たして日本軍はその方面の鴨緑江軍をまず動かし始めた。その中に第十一師団がある。これぞ乃木軍の主力、というので総予備隊をそっちへ移動したさいに、わが乃木軍は急進また急進、敵の右翼を大きく迂回し、氷雪の野を、戦史に有名な大繞回(にょうかい)運動を敢行し、奉天城を大きく後方から包むという態勢を採ったのである。」(同上書 p.331-332)
クロパトキンが日本軍の北上に気付いたのが2月28日、それが乃木軍であることを知ったのは3月1日だった。そこでクロパトキンは乃木の北上を阻止しようと、最終的には10万以上の大兵力を振り向けたのだが、それほど彼は乃木軍の戦力を過大に評価し恐れていたようだ。乃木の第三軍の兵力は3万8千であったという。
満州軍総司令部は、右を衝いたあと左の乃木軍を動かしてロシア軍を狼狽させたタイミングで、3月1日に一気に中央を突破しようとしたのだが、戦力の優るロシア軍に前進を堅く阻止され、多くの死傷者が出て戦いの見通しが立たなくなった。
この行き詰まりを打開するために、総司令部は乃木の第三軍を東清鉄道南武線に向かって進撃させ、ロシア軍の退路を断つ任務を与えている。ロシア軍は3月6日に乃木軍に大攻勢をかけたのだが、乃木軍は辛うじてロシア軍を撃退した。
そこでクロパトキンは3月7日の夕方に、優勢に戦っていた中央の第一軍と第三軍の戦線を縮少して乃木軍に振り向けている。このクロパトキンの決断が奉天会戦の帰趨を決することになった。3月8日に満州軍総司令部はロシア軍の退却に気付いて、直ちに追撃開始を命令した。
ロシア軍は兵を増やしても乃木軍を撃退することが出来ず、クロパトキンは日本軍に東西より包囲され退路を断たれることを怖れた。9日にはロシア軍の総退却を決意し、10日には最後の激戦が展開されたが、追撃戦では日本軍は砲弾の大半を使い果たしてしまっており、将兵の疲労もあって、敗走するロシア軍に大打撃を与えるには至らなかったという。
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プロフィール
- Author:日本会議地方議員連盟
- 日本会議(会長 三好達元最高裁長官)は、平成9年5月、各界代表や都道府県代表が参加して設立されました。元気で誇りある国づくりをめざして、超党派の国会議員懇談会(会長 平沼赳夫前経済産業大臣)の皆さんとともに全国で国民運動を推進しています。
このたび、日本会議に所属する全国の地方議員が連携し、地方議会から「誇りある国づくり」を発信するため日本会議地方議員連盟を設立しました。(平成17年3月6日)
議員連盟では、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹に関わる基本問題に連携してとりくむネットワーク作りを進め、「憲法・教基法」の改正をめざします。
議員会員(年間1万円)には、会員専用サイトを設け、国会の動き、時局問題に対する見解、全国地方議会の動きなど国民運動情報を提供します。
皆さんどうぞご入会ください。
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■設立趣意書
戦後わが国は、日本の弱体化を企図した占領政策の桎梏から抜け出せないまま、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹にかかわる基本問題について、多くの病弊を抱えたまま今日に至っている。
近年、新教育基本法の制定、国民投票法案の成立、さらには防衛賞昇格など、戦後体制を脱却する動きは注目すべきである。しかしながら、その潮流はまだ大きなものとはなっていない。
この時にあたり、今こそ発言し行動する真正保守の結集が問われている。ここに志しある地方議員は「誇りある国づくり」をめざす日本会議と連携し、地方議会よりその動きを起こし、日本の国柄に基づく新憲法制定へ向け日本会議首都圏地方議員懇談会を設立する。
全国の良識ある地方議員が我々の趣旨に賛同され、あまたの先人が築いてこられた、この祖国日本を再建するため、我々は、下記の基本方針を掲げて献身することを誓うものである。
(平成十九年十月六日)
〈基本方針〉
1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。
2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。
3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。
4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。
私たちはめざします。
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「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組みむ日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。
①改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。
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憲法改正早期実現国会議員署名
■ 422名 (11月21日現在)
憲法改正早期実現意見書採択可決
■36都府県 /59市区町村議会
■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野
■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決
辺野古移設賛同 地方議員署名
■現在署名数 1812名(231議会)
私たちのめざす 方針と活動
一、新教育基本法に基づいた教育改革と教科書採択を推進する
一、議場への国旗掲揚を推進し、地方から誇りある国づくりを提唱する
一、議会否定につながる自治基本条例を阻止し、議会活動を活性化する
一、ジェンダー思想を相対化する、家族の絆を守る運動を推進する
一、時局問題への対応を敏速に行う
一、研修会、講演会を開催し、会員相互の見識と親睦を深める
一、全国に3千名の地方議員ネットワークを形成する
…………………………………………………………………………
■【人権救済法案問題】
●人権侵害救済法案に反対する意見書案
※人権侵害救済法案の問題点について
…………………………………………………………………………
■【自治基本条例問題】
●議会否定につながる自治基本条例の阻止を
①自治基本条例の問題点について
②外国人に対する住民投票権の付与について
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■【議場の国旗掲揚推進】
●地方議会議場での国旗掲揚について
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■【外国人参政権問題】
●外国人参政権に反対する意見書採択について
①反対決議は362市町村議会(H22年9月1日現在)
②慎重議員署名4071名・535議会(同年9月1日現在)
③慎重首長署名568自治体(7県知事221市区340町村長・同年9月1日現在)
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