秋山好古の像(左)と、そばに移築された真之の像=松山市梅津寺町その他の写真を見る(1/7枚)
小説「坂の上の雲」の主人公であり、日露戦争で活躍した松山市出身の軍人、秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟の銅像が瀬戸内海沿岸の松山市梅津寺(ばいしんじ)地区の丘に仲良く並んで建っている。
昨年7月の西日本豪雨による土砂崩れで真之像のもとに行けなくなったが、真之像を移設することにより12月から再び、訪れることができるようになった。
同市には2人の生家も復元されている。2人の傑物のゆかりの場所に足を運び、近代日本に思いをはせるのもいいかもしれない。
教育者だった好古
好古は安政6(1859)年、真之は明治元年(1868)年、松山藩士、秋山久敬の三男、五男として生まれた。武家だが暮らしは貧しかった。
好古は明治8年、大阪師範学校(現大阪教育大学)に入学。翌年、名古屋師範付属小学校の教員になった。10年に陸軍士官学校入学、16年に陸軍大学校1期生となり、20年にはフランスに留学して騎兵を研究。日清戦争は騎兵第1大隊長として活躍し、陸軍乗馬学校長となった。
37年に始まった日露戦争では、世界で初めて騎兵隊に機関砲を常備し、世界最強といわれたロシアのコサック騎兵を破って世界を驚かせた。その後、大正5年に陸軍大将になると、朝鮮軍司令官、教育総監など陸軍の要職を歴任した。
退役後は請われて地元に帰り、私立北予中学(現・愛媛県立松山北高校)の校長を務めた。陸軍大将が生まれ故郷とはいえ、地方都市の中学校長になるのはきわめて異例で、入学希望者が殺到したという。
青年時代に教員を志した好古は、生涯を通して教育に情熱を注ぐ人だった。
「秋山兄弟生誕地」(松山市)を運営する公益財団法人常盤同郷会によると、好古は生まれ育った家を修理もせず質素な暮らしを続けた。子供たちに「人間は貧乏がええよ。『艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす』と言うてね、人間は苦労せんとできあがらんのじゃ。苦しみを楽しみとする心がけが大切じゃ」と諭していたという。
見晴山に移築された秋山真之の像その他の写真を見る(2/7枚) 好古は昭和5年11月4日、72歳で死去した。
才気煥発の真之
一方の真之。兄を追って15歳で上京し、明治19年に海軍兵学校に入学。日清戦争を経てアメリカに留学した。子供のころから才気煥発(かんぱつ)だったが、この留学と欧州出張で合理的思考を磨いた。日露戦争では連合艦隊司令長官だった東郷平八郎の作戦主任参謀を務め、「丁字(ていじ)戦法」を用いてバルチック艦隊を撃滅、日本の危機を救った。
俳人の正岡子規とは無二の親友で、真之も文才に秀でていた。バルチック艦隊との決戦の際に発した「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」の文は真之の作として知られる。
明治38年12月21日、連合艦隊解散式に際し、東郷平八郎が読み上げた名文「連合艦隊解散の辞」も真之が起草した。
「神明(しんめい)は、唯(ただ)平素の鍛錬に力(つと)め戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授(さず)くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ちにこれを奪う。古人曰(いわ)く、勝って兜(かぶと)の緒を締めよ、と」
この文章は翻訳されて世界中を駆け巡った。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領も感銘を受け、陸海軍長官に書簡を出して全軍に教示するよう促したという逸話は有名だ。
真之は大正6年に中将となったが、7年2月4日、50歳で病没した。
激戦地を望む兄弟像
秋山兄弟を顕彰する銅像は、戦前から道後温泉に近い道後公園(松山市)内に建立されていた。
昭和18年に金属類供出によって取り壊されてしまったが、38年、石手寺(いしてじ)(同市)の境内に真之の銅像が再建。同寺の駐車場拡張に伴い、43年に梅津寺地区の「大丸山(だいまるやま)」に移設した。
45年には好古の銅像が、真之像から道路1本を隔てた「見晴山(みはらしやま)」に建立された。当時は公有地に元軍人の銅像を建てることは困難な世相で、伊予鉄道の社有地になったという。
だが昨年7月、西日本豪雨で真之像のあった大丸山で土砂崩れが起き、観光客が行けなくなった。このため伊予鉄グループは真之像を見晴山の好古像の隣に移設。12月1日から公開が始まり、2人が仲良く並んで立つ構図が実現した。
ともに瀬戸内海を見下ろしているが、好古像は日露戦争の主戦場となった満州方面を、真之像は日本海海戦が行われた対馬海峡方面をそれぞれ向いている。
東京ラブストーリーの舞台
梅津寺地区はかつて海水浴場としてにぎわい、本格的な遊園地もあった。伊予鉄道梅津寺駅は、テレビドラマ「東京ラブストーリー」のロケ地となり一躍有名になったこともある。
その駅前に12月、かんきつの情報発信拠点「みきゃんパーク梅津寺」がオープンした。松山の新たな観光スポットになると期待されている。秋山兄弟の銅像までは徒歩数分で今後、多くの観光客が2人の銅像を訪れることになりそうだ。
秋山兄弟の生誕地は生家が原型に近い形で復元され、好古の騎馬像が建っている。常盤同郷会によると、かつて道後公園にあった騎馬像がここに再建されたものだ。真之の胸像もあり、好古の像は自分より早く亡くなった弟の像と優しく視線を合わせている。