今日は何の日 9月20日 1945年 - 文部省が教科書の戦時教育部分の削除を通達。生徒に墨で塗りつぶさせる「墨塗り教科書」となる。
墨塗り教科書とは、教科書の記述に墨を塗らせて抹消したもの。
日本が第二次世界大戦で敗北した直後に、国家主義や戦意を鼓舞する内容を抹消させたものが有名である。
教科によっては、ほぼ全行に抹消線が引かれたものもあった。当時の国民学校(現・小学校・中学校)では、当時使われた教科書のうち、
戦意高揚を歌った文章の箇所ついては「墨汁で塗りつぶして読めないように」という進駐軍の指示(命令)が出されたためである。



教科書への墨塗りは、韓国でも行われたことがある。
平成16年1月28日掲載
村の学校でも 進駐軍命令で
墨塗り教科書を写真で見かけたことがある 3人の子供が塗っていた
私は終戦当時 信州で村の国民学校に勤めていて
子供たちに墨を塗らせたことを思い出した
一人の生徒が成人してから書いた文章を今も持っている
「三学期も終わりに近い日 担任の先生は
習字道具を出して墨を塗るように指示して
しきりに国語の教科書に見入っていた ほどなく
『国語の教科書を出しなさい 進駐軍の命令で今使っている本の中で
戦争のことが書いてある部分を消すから
先生の言う所に墨をぬって読めないようにしなさい』
というようなことを言った」
「先生の表情は心なしかさみしそうに見えた
『では ○ページの○行目に○と書いたあるところに墨をぬりなさい』
墨ぬりは一文節であったり すべて先生の指示にしたがってぬった」
当時の学校日誌を見ても 21年2月28日
「教科書訂正の件打合わせ」
3月4日 「使用教科書の訂正削除(墨塗り)を行う」
そのほか3月5日 修身 国史 地理の教科書を集め 地方事務所へ送る」
などとある 終戦後しばらくは学校現場で教科書をめぐって混乱した
東京都清瀬市 熊谷 元一 94歳
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教科書化けて キャンデーに
夕暮れ 運動場に影が伸びた 職員室から人影が消えたさあ 決行だ
悪友を引率し 昼間に下検分済みの2階の教室へつま先を立てて忍び込んだ
机を重ねて台にし 天井板を押し上げた 首尾は上々 意気揚々と引揚げた
終戦は和歌山で迎えた 翌年の夏の記憶も酷暑続きであった
腹もすかせていたが のどのかわきもひどかった
炎天下をアイスキャンデー屋が 極彩色の旗をなびかせ
独特の節回しで焼け跡を派手に駆け巡っていた
「夜の梅カクテル アイスキャンデー」 これが垂涎の的であった
どうしても一度は口にしたい 貧しい少年は一計を案じた
教室の天井裏にある大量の 「墨塗り教科書」 に目をつけた
学校が児童から集めて処分に困って隠していたようである
犯行翌日 大量の不適教科書を自転車に縛り アイスキャンデー屋に直行した
包み紙が極度に不足していた時である
おばさんは目を細めて渡りに船と高額で引き取ってくれた
少年の家が本屋を営んでいたのを知っていたから 疑いを持たなかったのだ
信じられない大金を手にして少年は狂喜した
悪友と山分け 他の友人たちも招いて大盤振る舞いだ
しばらくは キャンデー キャンデーの毎日が続いた
横浜市 谷本 亮輔 68歳
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真っ黒にして 敗戦を実感
終戦の昭和20年 私は国民学校6年生で 丹波の山村に疎開していた
9月に先生から 「教科書全冊と 習字の道具を明日持ってくるように」
と指示された 私たちは何事かと思いながら学校に持っていった
まず地理と歴史の教科書が没収された その後墨をすれという
習字の時より多く水を入れて濃いめにすらされたが
それから国語の教科書出して墨塗りの作業が始まった
先生の指図で1㌻から順次 大筆で軍事用語に棒線を丹念に引いて塗りつぶしていった
国語の教科書は多くのページが真っ黒になるほどで
本の体裁などなくなった
算数は何を消すのかと思ったら 例題の 「軍用機」 や 「軍艦」
の文字がいかんという
この時私はしみじみと敗戦を実感すると供に ついこの間まで教えられていた事柄が
全く逆転したことに少なからず驚いた
理科 音楽の教科書は特別の指示がなくそのまま持ち帰ったが
学校によっては墨塗りの対象になったと後日知った
混乱した事態に対処して文部省はGHQの指令を受けて12月になってから
詳しい通達を出したという 私が疎開から京都の家へ帰ったころであった
京都市 谷林 生二 69歳
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「ね、塗ってね」 先生は泣いた
終戦の年 国民学校5年生だった 2学期 私たちは先生に言われるまま
泥墨とか握り墨という粗悪品を懸命にすった
神話や戦争の話など都合の悪い記述を塗りつぶすのだ
「本や新聞は またいだり踏んだりしてはいけない」
と小さい頃から厳しく言われて育った私は
大事な教科書にどうしても塗ることができないでいた
まだ結婚していなかった若い女の先生が傍らに来て言った
「ね・・・・・・・塗ってね」 先生を見上げた
大粒の涙をボロボロと流されていた
自らの手で教科書に墨を塗ることを強要することは
先生にとって 私たち以上につらかったに違いないと今になって思う
塗りつぶした内容はほとんど忘れてしまったが
恩師のほおを伝わった大粒の涙だけは脳裏に鮮明に焼き付いている
岐阜市 田中 寿子 69歳
かへる<霊>
汽車はいつものように 小さな村の駅に人を吐き出し、
そつけなく煤と煙をのこして 山の向ふへ走り去った。
降り立った五六人のひとびとは 白い布で包んだ木の箱を先頭に、
みんな低く頭を垂れて 無言で野路へと歩き出す。
<かつての日の光栄は、 かつての日の尊敬すべき英雄は、
いま骨となつて故郷へ還つたが、 祝福する人もなく、罪人のやうに
わづかな家族に護られて野路をゆく。>
青い田と田のあひだに 大空をうつす小川
永遠の足どりのやうに 水の面に消えまた現れる緩い雲。
この自然のふところでは すべてが、あまりに一やうで
歓びと悲しみも、さては昨日の今日も、 時の羽搏きすら聴こえぬ間に生きてゐる。
<無言の人々に護られた英霊は、 燃える太陽の光のなかで、
白い蛾のやうな幻となつて 眩しくかがやき動いてゐる、>
<かへるその霊の宿はどこか、 贖はれる罪とは何か?
安らかに眠れよ、ただ安らかに> おまへを生み育てた村の家に、
戦ひのない、この自然と人の静かさの中に。
これは川路柳虹という人の「かへる霊」という詩である。私はいつものように、さてここで問題です、などと道化る訳にはゆかない。
< >に括られた部分は、昭和22年に検閲により削除された部分である。勿論、タイトルになっている「霊」という一文字からしてそうだ。<>の部分が無い詩は、まったく平凡、平和であって、いかにボケたものであるか。骨抜き、意味の無いものになってしまうのである。
この作業に従事した検閲官たちは、邪悪な異文化を改造することに情熱を燃やした。GHQの宗教政策の一端をも担っていた。最初のチェックと翻訳に当たっていたのは、れっきとした日本人であったというが、彼等も喰うためとあらば、それらの日本人を非難しようとは思わぬ。
ただ、この作戦は非常に大掛かりなものであった。昭和23年の資料によれば、米陸軍将校66名、下士官兵63名、軍属244名、米国人以外の在日外国人148名、日本人5658名がこの部署に属していたことが明らかである。
このような検閲体制はわが国有史以来初のことであろう。
戦中にはまーだいろんな事が言えたのではなかったか。大政翼賛会選挙は違憲とする判決を出した判事もいた。しかし、今日の話題は戦後だ。
昨日に続くのであるが、広田弘毅の助命嘆願の国民的な動きが起こる。しかし、それまではわが日本国政府は東京裁判には全くの無関心なのである。
ようやく、嘆願書を首相がマッカーサーのもとへ届けるのであるが、あいにく不在で、ホイットニーに「それは首相のすることではないでしょ」などと言われて、嘆願書を持ち帰るんですね。
75歳にもなった耄碌した爺さんを首相に据え、憲法草案の真似事をさせ、結局はアメリカ製を日本政府の名において公布させたんですね。
その場面を、私は文学作品の中でしか知らないが、明るい部屋で、太陽の陽を背にした米国人の前に日本政府の首相以下関係者が並び、第三の核攻撃を示唆され、半ば脅しであったという。
ま、これも国体護持のためと言えなくはないが、我ら日本人としてなんとも情けない話ではないか。
この検閲は占領期間中終わりが無かった。