第二次世界大戦・真珠湾攻撃: 南雲機動艦隊が単冠湾に集結する。
山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩御扶持方[1](中士階級)南雲周蔵、志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。海軍兵学校では三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与された[2]。1908年(明治41年)、海兵36期を191人中5番の成績で卒業[3][注 1]。海軍少尉候補生となり巡洋艦「宗谷」乗組。
https://youtu.be/3ArGiIwQU4s
1918年(大正7年)12月1日、海軍大学校甲種学生18期生となる。1920年(大正9年)海大甲種第18期を次席で卒業[4][注 2]。1920年(大正9年)12月1日 海軍少佐に昇進。
昭和16年|(1941年)11月22日。

南雲忠一中将率いる空母6隻を中心とした、30隻を超える大日本帝国海軍空母機動部隊は、九州での猛訓練を終えて、コート無しでは外にも出られない、択捉島の単冠ヒトカップ湾に集結した。
出港直前、第一航空戦隊旗艦の空母「赤城」に各空母の飛行隊長達が集結。南雲中将は今まで明かさなかった攻撃目標が、ハワイのアメリカ太平洋艦隊であると告げる。
そして「赤城」艦長の長谷川喜一大佐が
「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という、山本五十六連合艦隊司令長官の訓示を代読した。
―4日後の11月26日。機動部隊は択捉島単冠湾を出港。隠密行動のため、アリューシャン列島沿いの北方航路を使用。
冬の北太平洋の荒シケの中、南雲艦隊は、作戦目標ハワイへと向かった。

一方、12月1日の御前会議では対米宣戦布告はハワイ攻撃の30分前と決定した。
12月2日。荒れる北太平洋を進む南雲機動部隊。
「赤城」の排水量3万トンを超える艦体が大きく揺れる
同様に他艦も大きく揺れていた。
「やはり荒れていますな」
航空参謀の源田実中佐が一言呟いた。
彼は航空機、特に戦闘機についてのエキスパートで、まだ大艦巨砲主義が根強い昨今、大艦巨砲主義を猛烈に批判している人物だ。
戦後は航空自衛隊幕僚長などを経て政治家となった。
「あぁ。荒れている」
第一航空戦隊参謀長草鹿龍之介少将が返事をする。
彼も航空機に携わっていたが、期間は半年程度だった。剣道家としても知られている。
「もし、こんな揺れの中を発艦することは可能なのかね?」
南雲中将が問う。
「爆撃機はともかく、魚雷を抱えた攻撃機は難しいですね」
源田中佐が質問に答えた。


