1905年 - 日露戦争: 日本軍の乃木希典大将とロシア軍のステッセリ中将が水師営で会見。敵将に対する仁愛と礼節にあふれた武士道精神は世界に感銘を与えた。
■1.日露友好の写真 不思議な一葉の写真がある。日露戦争中、日本軍とロシア軍の幹部が仲良く肩寄せ合って並んだ記念撮影である。あまりにも自然に親しげにしているので、あたかも同盟国どうしの軍事演習での記念写真かのように見えるが、それは違う。

これは両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦でロシア軍が降伏した後の水師営(すいしえい)の会見での記念写真である。通常、降伏した側は帯剣は許されないが、明治天皇からの「武士の名誉を保たしむべき」との聖旨を受けて、ステッセル将軍以下、軍装の上、勲章をつけ帯剣していた。
同地にはアメリカの従軍映画技師もいて、この会見を映画撮影したいと申し入れていた。しかし、乃木希典(のぎ・まれすけ)将軍は敗軍の将にいささかも恥辱を与えてはならないとこれを許さず、この一枚の記念写真だけを認めたのである。
会見の模様は、この写真とともに全世界に報道された。武士道精神に基づく乃木のステッセルへの仁愛と礼節にあふれた態度は、世界を感銘させた。世界はわずか5ヶ月での旅順要塞の陥落に驚愕し、またこの会見に感嘆した。
この6年後、乃木はイギリス国王戴冠式に参列される東伏見宮依仁(よりひと)親王に東郷平八郎とともに随行してイギリスを訪問したが、イギリスの一新聞は「各国より多数の知名の士参列すべきも、誰か東郷、乃木両大将とその光輝を争いうる者があろう」と報じている。
その後、乃木はフランス、ドイツ、オーストリア、ルーマニア、トルコなどを歴訪したが、ある欧州人は「彼がほとんど全欧州諸国より受けた王侯に対するがごとき尊敬と希にみる所の賞賛」と形容している。
■2.「いかなる敵を引き受けても3年は支えることができる」 明治37年2月、ロシアが満洲を蚕食し、さらに朝鮮半島にまで侵出する野望をあらわにすると、日本政府はこれ以上は座視できぬと国交を断絶した。
5月、乃木は第三軍司令官に任ぜられた。3年前に師団長をしている際に、部下が不祥事を起こしたために、潔癖な乃木は自ら休職していたのだが、国家の非常時に、乃木ほどの人材を野に置いておく余裕はなかった。
ロシアは長年の夢である不凍港を旅順に獲得し、そこに難攻不落の要塞を築いていた。この旅順攻略を、第三軍は命ぜられた。
しかし、ロシア側は旅順要塞の防備について、徹底して秘密保持に努めたので、参謀本部にもその内情は分からなかった。情報不足のまま、参謀本部は旅順の敵兵力を約1万5千、火砲約2百門と見積もり、第三軍は総兵力約5万と3倍以上なので、一気呵成に攻略できるものと信じて疑わなかった。
しかし、実際にはロシア軍は総兵力4万7千、火砲約500門を備えていた。しかも、ロシア側は6年もかけて近代的な大要塞を築いていた。旅順港を二重、三重に取り囲む100mから200m級のほとんど樹木のないはげ山の上に、強固なコンクリート壁に覆われた大小の堡塁と砲台をびっしりと並べた。
堡塁は厚さ1~2mのコンクリートで固められ、その前には幅6~12m、深さ7~9mの壕が掘られている。さらにその外側には電流を通じた鉄条網が張り巡らされ、地雷まで埋められていた。
クロパトキン陸相は「いかなる敵を引き受けても断じて3年は支えることができる」と自負したが、それも当然の大要塞であった。
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旅順(りょじゅん)開城(かいじょう) 約成(やくな)りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営
庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋(みんおく)に
今ぞ相(あい)見る 二将軍
乃木大将は おごそかに、
御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
大(おお)みことのり 伝(つと)うれば
彼(かれ)かしこみて 謝しまつる
昨日(きのう)の敵は 今日の友
語ることばも うちとけて
我はたたえつ かの防備
かれは称えつ わが武勇
かたち正して 言い出でぬ
『此の方面の戦闘に
二子(にし)を失い給(たま)いつる
閣下の心如何にぞ』と
『二人の我が子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門(ぶもん)の面目(めんぼく)』と
大将答(こたえ)力あり
両将昼食(ひるげ)共にして
なおもつきせぬ物語
『我に愛する良馬(りょうば)あり
今日の記念に献ずべし』
『厚意謝するに余りあり
軍のおきてに従いて
他日我が手に受領せば
ながくいたわり養わん』
『さらば』と握手ねんごろに
別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)
砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に
ひらめき立てり 日の御旗(みはた)

