今日は何の日 9月23日 昭和12(1937)年 – 第二次国共合作成立。

国共合作とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に亘り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。
「合作」は中国語で協力関係を意味する
まず、中国国民党は1919年に、中国共産党は1921年に結成されます。
当時、中華民国の政権をにぎっていたのは北京の軍閥政府で、国民党でも、共産党でもありませんでした。
また、中国各地に軍閥が割拠し、国内はバラバラでした。
孫文は、軍閥を倒し、一つにまとまった中国の建設を目指します。
そんな時に、共産党を指導していたソ連のコミンテルンから持ちかけられたのが国民党と共産党の協力です。
その頃、彼は遠くロシアで起こった革命に関心を持ち、五・四運動で、労働者達の力を認識した事もあり、協力の誘いを受けました。
1924年1月20日、『第一次国共合作』の成立です。
『連ソ・容共・扶助工農(ソ連と組んで、共産党を受け入れ、労働者、農民を助ける)』のスローガンの下に団結した彼らは、ソ連から軍事・経済援助を受け、いよいよ軍閥の掃討に乗り出します。
が・・・
孫文(1925年3月12日)は、行動を起こす前に亡くなります。
しかし、5月30日に中国・上海で日本の工事で働いていた中国人労働者のストに対して「租界警察」が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た五・三○事件が起き、反帝国主義と、列強に対抗できる統一された強い中国を求める運動が全国へ波及し、国共合作の後押しとなります。
(アヘン戦争の代価に、イギリスが中国から強制的、永久的に土地を得た1842年に誕生した。アヘン戦争によって清国が敗れると、イギリスは江寧(南京)条約で、中国から買い受けた上海の土地で自国の法律を施行し、独自の習慣や文化を享受していた。
これ以降の約百年が租界の時代(老上海、大上海)である。また、アロー戦争の敗北によって、その他の列強も上海に利権を持つようになった。租界では治外法権が認められ、多数の列強の干渉と施政のもとで上海は急速に発展を遂げ、1920年代から1930年代にかけて租界は黄金期を迎えた)
さぁ、今度こそ行動開始です。
孫文の後をついだ蒋介石が広州に国民政府を樹立し、自ら総司令官として軍を率いて、北の軍閥の掃討に向かいます。
北伐です。
軍は二手に別れました。
一つは、広州から、海岸沿いに北上する蒋介石率いる国民党右派。
真っ直ぐ北上するのが、共産党と国民党左派です。
共産党と国民党左派は、武漢を占領し、そこに仮の武漢政府を建てます。
蒋介石も順調に上海、南京に進軍します。
しかし、彼は上海で地元の資本家(浙江財閥)と組んで共産党員を虐殺します。
上海クーデタです。(1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う)
こうして、各地で共産党狩りが行われ、蒋介石は国共合作をぶち壊します。
彼は、共産主義が嫌いでした。
その後、蒋介石は南京に国民政府をきずき、共産党を追い出した国民党左派と合流すると、国民党単独での北伐を始めます。
結果、日本に殺された親父の後をついだ張学良が降伏し、北京を占領します。
これにより、“一応”中国統一です。
軍閥や共産党はまだ残っています。
その後、1931年日本により、満州事変がおきます。
しかし、蒋介石は、日本より共産党を抹殺する事に専念します。彼にとっては共産党の方が重要でした。
共産党は、1931年に江西省瑞金で『中華ソヴィエト共和国臨時政府』を立ち上げ勢力を拡大します。
しかし、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、その中心地であった瑞金を包囲されると、瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、たまらなく1万2500km敗走します。
共産党はかっこつけてこれを『長征』と呼びますが、実際は大敗走です。征されているのは共産党です。
なんだかんだで、ボロボロになりながら最後は延安に落ち着きます。
しかし、この間に重要な事がありました。
毛沢東が実権を握り、1935年8月1日、中華ソビエト共和国政府と中国共産党とが連名で、『八・一宣言』を出して、国民党政府に対して抗日統一戦線の結成を呼びかけます。
そして次第に、国民党内部にも日本と戦うべきだという考えが芽生えますが、蒋介石はまだ共産党に固執します。
この状況に、張学良は行動を起こします。
西安にきた蒋介石を拘束・監禁し、抗日民族統一戦線を結成するように説得します。
しかし、蒋介石はまだ受け入れませんでした。
そこで、延安から共産党の周恩来を呼び、話し合ってもらい、遂に蒋介石も妥協します。
そして、1937年、抗日に向けて
第二次国共合作が成立しました。
1937年(昭和12年)7月7日、中国の北平(注:現在 の北京。事件当時は北平と改称していた。)の郊外にある廬溝橋(ろこうきょう)付近で夜間演習を行なっていた日本軍が、
午後10時40分ころ(注:午後11時00分ころとする資料もある。)、実弾射撃を受けた。
そのときに日本兵(初年兵)1人が一時所在不明であったことが事態を大きくしたが、この日本兵は約20分後には隊へ復帰している。
誰がはじめに射撃を行なったかは、いまだに明確になっていない。
次のようないくつかの説があるが、日本軍の謀略であるとする証拠はみあたらないようである。
①中国兵によって何か(日本兵が近付いたなど)をきっかけに偶発的あるいは故意にになされたとみる説。
②中国の内戦で国民党軍との戦いに劣勢であった中国共産党が国民党軍と日本軍とを武力衝突させるために画策したのではないかという説。
③日本軍が仕組んだのではないかとする説。(注:当サイト管理人は、この説については根拠がとぼしいと思います。)
発砲事件自体はそれまでにもあった小さな事件であったが、日本兵1人が所在不明との一報を受けたことと、たびかさなる銃撃を受けたことから、日本軍はしだいに高圧的な姿勢となり、
また、中国軍の抗日意識も高まっていたことから、日本軍と中国軍との本格的な戦闘となった。支那事変(いわゆる「日中戦争」)である。
なお、日本と敵対関係にあったソビエト連邦は共産党中国支部の設立を支援した。またコミンテルンを通じて中国の共産化政策を強力に押し進めた。
1937年8月13日の日中両軍の全面衝突から10日足らずで中ソ不可侵条約を結んで、蒋介石国民政府をも物資だけでなく人も含めた全面的な支援をして、国民政府の反共産化政策を放棄させるのに成功した。
また日本の伸張に危機感を持ったアメリカは、蒋介石の妻の宋美齢によるフランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って
1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。

広東からアメリカ海軍の艦船に乗って山東に向う共産軍の部隊