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領土保全がプーチン思想の柱だ 北海道大学名誉教授・木村汎

領土保全がプーチン思想の柱だ 北海道大学名誉教授・木村汎
2019.2.11


ほくだい
北海道大学名誉教授の木村汎氏(川口良介撮影) 

 「自分とプーチン大統領の手で必ずや平和条約を結ぶ」。今や口癖にもなった安倍晋三首相のせりふである。ところがロシアのプーチン大統領が現在、国内で置かれている立場、加えて同大統領が得意とする対日焦(じ)らし戦術を考えると、残念ながら次のように予想せざるをえない。同首相の熱意は叶(かな)わないのみならず、裏目にさえ出る危険がある、と。説明しよう。

 ≪愛国心を満たしたクリミア併合≫

 まず、ほとんどのロシア国民は日本への領土-たとえ1島であれ-の引き渡しに反対している。ロシア国民は、1990年代前後から母国ロシアを次々と見舞った一連の諸事件によって自信を失い、極度の劣等感にさいなまれている。例えば、東欧「衛星」圏の喪失、ソ連邦の解体、事実上ロシアの冷戦敗北、「米国一極主義」の台頭、中国の躍進…等々。

 そのように落ち込んでいた最中、プーチン大統領は、2014年、ウクライナ南部のクリミア半島をロシアへ強制的に併合することに成功した。これは、大多数のロシア人の目に国際舞台でロシアの存在感を誇示する快挙のように映った。久方ぶりに彼らの愛国心は満たされ、同大統領の英断に拍手喝采を送った。そのように自国ロシア領を拡張した指導者が、果たして同一の手で領土を他国へ返還しうるものだろうか。もしそうすれば、彼は二重尺度の持ち主として非難されるだろう。

 実際、ロシアの世論調査によると、北方領土を日本へ引き渡すべきでないと答えた者は74~77%、引き渡してもよいは僅かに14~17%。首都モスクワ、サハリンでは北方領土返還反対デモが起こっている。彼らが掲げたプラカードのなかには「日本へは(島の代わりに)プーチンを引き渡そう」との言葉すら現れた。

 ≪1島たりとも返還の意思はない≫

 次に指摘すべきことは、他ならぬプーチン大統領本人が北方領土を1島たりとも対日返還する意図のない思想の持ち主であることだ。彼は自ら志願してKGB(ソ連国家保安委員会)に加わった。KGB要員(チェキスト)が順守すべき最重要価値とは何か。こう問われるならば、母国ロシアの神聖なる領土保全と答えて間違いなかろう。実際、同大統領は、ロシアの領土はたとえ1ミリメートルであれ失うべきではないと述べている。

 プーチン氏は、東独ドレスデンのソ連KGB支部へ派遣されているときに、ホーネッカー体制がカルタの城のように一挙に崩れ去るのを目の当たりにした。ゴルバチョフ大統領が唱えた「ペレストロイカ(立て直し)」「グラスノスチ(情報公開性)」「新思考外交」によって、かつて社会主義の模範と称され、鉄壁の結束を誇っていたはずの東独体制がである。

 結果として東独はソ連の手元を離れ、西独へ合体した。さらに帰国後のプーチン氏を襲ったのは、彼自身が「20世紀最大の地政学上の大惨事」と名付けるソ連邦それ自体の解体だった。

 右のような原体験をもつプーチン氏は、大統領就任直前期からチェチェン共和国のロシア連邦からの独立運動を徹底的に弾圧し、封じ込めた。また「ミニ・ソ連の再建」を己の神聖な使命と見なし、今日まで「ユーラシア経済連合」の組織化に躍起になっている。14年にはウクライナ内紛を巧みに利用してクリミア併合に成功した。

 同併合前には60%台に低迷していたプーチン大統領の支持率は、併合後には一躍80%台にまで上昇した。ところが、4期目の大統領就任(18年5月)後の現在、プーチン氏の人気は再び60%台へと逆戻りした。年金受給年齢の引き上げや公共料金値上げが、ロシア国民の不満や怒りを買ったことにもとづく。

 ≪対日政策の要諦は焦らし戦術≫

 では、プーチン政権の対日政策の要諦とは何か。一言で答えるならば、焦らし戦術の継続といえよう。安倍首相の任期は21年9月末まで。ロシアとの平和条約締結には、日本国民の同意、国会での批准がぜひとも必要だろうから、今年6月開催の20カ国・地域(G20)首脳会議までにプーチン大統領との間で大枠合意を得る-これが、同首相にとりぎりぎりのタイムリミットとなる。

 ところが他方、プーチン大統領の任期は24年5月まで。安倍首相に比べ2年半も長い。そのことを計算に入れ、少なくとも今年中はプーチン氏はのらりくらりと交渉を続行するジェスチャーをとりつづけるだけだろう。

 ロシアの対日接近の意図は明らかである。米国、先進7カ国(G7)、中国に対する牽制(けんせい)のカード、アジア太平洋地域への参入、日本からの経済、科学技術力の引き出しだ。これらの狙いを達成するためにプーチン氏が取っている戦術は単純明快である。

例えを用いるならば「うなぎの蒲(かば)焼きの匂いを嗅(か)がせる」だけによって、日本からロシアが必要なものをできるだけ多く、かつ長い期間にわたって入手する手法だ。安倍首相は一刻も早くこのクレムリン戦術に気付き、逆にロシア側を焦らす時期に差しかかっている。(北海道大学名誉教授・木村汎 きむら ひろし)
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