しかし、4月10日、訪米途中に日本に立ち寄ったチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世と安部前首相の昭恵夫人が面会したが、わが国政府は中国に配慮して、ダライ・ラマ14世に面会しなかったことに象徴されるように、チベットの人権に対して冷淡である。
そもそも、ダライ・ラマ14世がわが国に訪問したには理由があり、チベットは日清戦争を契機に、1912年7月、ダライ・ラマ13世が独立を宣言した。ところが、1949年10月、中国共産党が国共合作に勝利し、中華人民共和国が成立すると同時に、中共政府は「チベットは中華人民共和国の一部」であり、人民解放軍は「チベット人民を外国の帝国主義の手から解放するため」にチベットに進駐すると宣言し、国境に大軍を終結させた。
むろん「外国の帝国主義」などチベットに存在するはずはなく、「解放」という名の「侵略」を行い、1950年の朝鮮戦争勃発のどさくさに応じて、1951年5月23日、「チベット平和解放に関する協定」(通称・17条協定)を強要され、チベットは中国に併合され独立を失った。
しかも、17条協定はダライ・ラマ政府による自治が規定され、チベット仏教や文化の尊重もうたわれていたが、実際に占領が始まると、協定は文字通りの反古となり、中国による東チベットと呼ばれる地域での弾圧はすさまじいものがあった。また、チベット仏教に対しては徹底して弾圧された。
これに対して1955年には東チベットでは大規模な反中暴動が起こり、ついに1959年3月、中国軍がダライ・ラマ法王を護衛なしで観劇に招待したことを契機に、法王の身の安全が憂慮されるようになり、3月10日、民衆3万が法王の住むノルブリカン宮殿を取囲んだ。
法王は側近を通じて解散するよう説得したが、民衆は包囲を解かず、「チベットに独立を」「中国人は帰れ」とシュプレヒコールがあがり、デモも行われた。このラサ蜂起とも呼ばれる事件の記念日がこの日であり、まさに今回ラサで事件の発端となるデモはこの3月10日に合わせて行われたわけである。
中国軍は、これを「反動分子による蜂起」として、ノルブリンカ宮殿と周囲の民衆に対して砲撃を開始、集まった民衆も大寺院も攻撃の対象となった。このとき、ラサだけで8万5千人のチベット人が殺された。
蜂起は数日のうちに鎮圧された。幸いなことに、ダライ・ラマ13世はこの3日前に、中国軍に知られることなくノルブリンカ宮殿を脱出し、インドへ亡命し、のちに亡命政府を樹立することとなる。
この後、チベット全土では大規模な虐殺と弾圧、寺院の破壊が行われ、また大量のチベット人が投獄され、検挙され、行方も分からず、連行されていったのである。また、大量の民衆が、残虐な強制労働と窮乏から死に追いやった。
チベット亡命政府は、避難民からの聴取をもとに、死亡したチベット人は約120万人にのぼると発表している。こうした弾圧は、陰に陽に今日まで続いている。
今回の騒乱もこうしたチベットの抵抗運動、独立要求運動の延長戦上にあると捕らえるべきであり、まさに民族自決運動である。最新装備の軍まで大規模に出動させる中国側に対して、チベット人がほとんど身ひとつで抵抗し続けている構図は、何も今回のケースだけではないということである。
わが国は、否、福田首相は、こうした弾圧は今回だけの弾圧ではないことを念頭に、中共政権の犯罪性に対して、各国の首相が宣言したように、北京五輪開会式のボイコットを宣言すべきである。
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