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1582年(天正10年6月2日) - 本能寺の変。明智光秀が京都府の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、織田は自害。

今日は何の日 6月21日 1582年(天正10年6月2日) - 本能寺の変。明智光秀が京都府の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、織田は自害。

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本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年6月21日(天正10年6月2日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い、自殺させたクーデターのことである。暗殺事件との解釈もなされる。

光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎の1つである。
【 天正10年(1582年)5月4日 幕府設立を拒否 】 本能寺の変まで、あと28日

この日、織田信長は時の天皇 「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」 から 「将軍」 就任と、 「幕府」 の設立要請を受けましたが、断ったと言います。

なぜ信長が天下人になる最短ルートと言える、将軍就任と幕府設立を断ったのか・・・
それは不明です。

信長が新しい方法で 「日本の王」 になろうとしていたのではないかという説がありますが、将軍職については、信長は息子の 「織田信忠」 に就任させたがっていたようです。

信長は自分が引退した後の事、つまり 「織田信忠」 による織田幕府の設立を考えていたのではないかと言われています。

また、信長自身が 「帝」 になる野望を持っていたとも言われており、正親町天皇に譲位を迫っていたという説もあります。

【 天正10年(1582年)5月7日 長宗我部攻め 】 本能寺の変まで、あと25日

四国地方の土佐(現在の高知県)の戦国大名 「長宗我部元親」。

彼は織田家とは友好的な関係を築いており、その窓口となっていたのは明智光秀でした。

明智光秀の家臣 「斎藤利三」 は妹を長宗我部元親に嫁がせており、織田信長と長宗我部元親の関係も、特に悪いものではなかったのですが・・・

しかしこの日、信長は息子の 「織田信孝」 を大将とし、重臣の丹羽長秀なども加えた主力部隊で、四国の長宗我部家に攻撃を行うことを決定します!

信長が四国攻めを決めた理由は不明ですが、天下統一のためには必要と考えたのでしょうか。
長宗我部家と敵対していた四国の勢力 「三好家」 の三好康長は、羽柴秀吉を通じて織田家と友好的な関係を築いていたため、これが影響したという説もあります。

いずれにせよ明智光秀にとっては、親しい関係を保ってきた長宗我部家が織田家に攻められる事になったのは、深刻な事態であったことでしょう。

【 天正10年(1582年)5月7日 徳川家康の接待 】 本能寺の変まで、あと15日
織田信長に誘われて、少数のお供と共に安土城を訪れた徳川家康。

織田信長は、その家康の接待を明智光秀に命じ、3日間に及ぶ手の込んだ歓迎を行いました。

ところがこの接待に不手際があり、織田信長は明智光秀を途中で解任してしまいます!

一般には、「明智光秀が徳川家康のために用意した鯛が腐っていて、それを見た織田信長が激怒! 明智光秀を罵倒した挙げ句、さらに接待役を解任してしまった」 と言われています。

また、罰として小姓(信長の世話係)の森蘭丸に数度むち打ちされたとか、腐った鯛を掘りに捨てられて馬鹿にされたという話もあります。

加えて、羽柴秀吉への援軍が申し付けられ、仕事を途中で辞めさせられた上に、秀吉の下位にされた事で、明智光秀の自尊心は大きく傷つけられたと言います。

この一件は 「本能寺の変」 の原因として大きなものと言われていて、後世、様々な説が飛び交っています。

明智光秀の行動から考えて、これが本能寺の変の引き金になったという説、
鯛の腐った話は創作であり、このような事実はなかったとする説、
鯛ではないが味付けに問題があって、信長の機嫌を損ねてしまったという説、

途中解任されたのは秀吉から援軍を求める手紙が届いたためで、問題が起きたからではないという説・・・ 色々です。

事実がどういうものだったのかは解りませんが、とにかくこの後、明智光秀は自分の城に戻り出陣の準備を進める事となります。

【 天正10年(1582年)5月26日 光秀、出陣準備 】 本能寺の変まで、あと5日

中国地方では、羽柴秀吉が織田家と敵対している戦国大名 「毛利家」 と交戦中でした。
秀吉は 「備中高松城」 という毛利家の城を包囲していて、城の周囲を水没させる 「水攻め」 を行っていました。

しかし毛利家の主力部隊がこの方面に出陣したため、秀吉は信長に救援を要請する手紙を出します。

徳川家康の接待を終えた明智光秀は、この秀吉の援軍を命じられ、丹波(京都の西)にある自分の城に戻り、中国地方へ出陣する準備を進めるのですが・・・

この時、明智光秀は織田信長に持っている領地を全て取り上げられ、これから攻めに向かう毛利家の領地を代わりに与えられたと言われています。
これを 「国替え」 と言います。

しかし、代わりに与えられたと言ってもそこはまだ敵の土地です。
さらに領地が取り上げられるという事は、明智光秀の家臣や一族の領地もなくなる事を意味します。
それは明智光秀にとって、死活問題でもありました。

この 「国替え」 は明智光秀だけが命じられた訳ではありませんが、「敵の土地が代わりに与えられた」 というのは前例がなく、本能寺の変の原因になったとも言われています。

なお、徳川家康の接待を終えてから、この日に丹波の城に入って出陣の準備を始めるまでの10日間、光秀がどこで何をしていたのかの記録がなく、謎となっています。

また、この翌日、明智光秀は 「愛宕神社」 という神社に行き、おみくじを2・3度引いたそうです。

【 天正10年(1582年)5月28日 愛宕百韻 】 本能寺の変まで、あと3日

この日、明智光秀は 「愛宕」 という土地のお寺で 「連歌会」 を行いました。
この連歌会を 「愛宕百韻」 と言います。
連歌会とは何人かで集まって俳句を詠み合う行事です。

そしてこの連歌会の最初に、明智光秀が一番目に詠んだ句が、以下のものでした。
「ときは今 天が下しる 五月哉」

この句は一見、ただの5月を示す句に見えますが、「明智光秀が謀反の決意を詠んだ句ではないか」 と言われています。

明智光秀の本家は 「土岐家(とき家)」 という家でしたから、「ときは今」 は 「土岐は今」 とも読めます。

「天が下しる」 の 「天」 は 「雨」 の事ですが、「天が下治る」 と読むと 「天下を治める」 という意味にもなります。

つまり、「土岐は今 天下治る 五月哉」 となり、明智光秀が謀反を起し、天下を治めようとしているのを句に詠んだのではないかと言われているのです。

もしそうだとすると、明智光秀はこの時点で謀反を起す決意を固めていたことになります。

実際にこの句が天下を取る決意を表したものであったのかどうかは解りません。
ただ、当時からこの句については議論の的になっていて、本能寺の変が起こった後、この連歌会に参加した人は全員、謀反の共謀の容疑で取り調べなどを受けています。

連歌会を終えた明智光秀は句を神社に奉納し、いよいよ出陣する事となります・・・

【 天正10年(1582年)5月29日 信長、本能寺へ 】 本能寺の変まで、あと2日

織田信長は羽柴秀吉からの援軍要請に応じるため、安土城で中国地方に軍勢を派遣する準備を進めていましたが、この日の夕方、京都のお寺 「本能寺」 に入ります。

この時、多くの名物茶器も本能寺に運んでおり、大きな茶会を開催する予定だったと言われています。
この茶会の開催を進言したのは、高名な茶人であり堺の町の会合衆でもあった 「千利休」 のようです。

一方、徳川家康は安土城の接待の後、京都を観光中でしたが、この日はお供の武将と共に堺の町の見物に出かけていて、茶人であり堺会合衆の一人でもあった 「津田宗及」 の接待を受けていました。
(京都 本能寺)

羽柴秀吉は中国地方で毛利家の城 「高松城」 を水攻めで攻略中です。
柴田勝家は北陸地方で上杉家の城 「魚津城」 を攻略中で、この城は陥落間近であり、戦いは大詰めに入っていました。

【 天正10年(1582年)6月1日 「敵は本能寺にあり」 】 本能寺の変、前日

京都の本能寺に入った織田信長は、朝廷(天皇家)の使いとしてやってきた 「勧修寺晴豊」 などのお公家さまと対面し、持ってきた茶器の披露などをしていました。

一方、明智光秀は・・・ この日の夕方、13000人の兵を率いて丹波(京都の西)にあった 「丹波亀山城」 を出発します。

その出発前には、明智軍の家臣である 斎藤利三、明智(左馬介)秀満、藤田伝五 などと共に、「本能寺の変」 のための作戦を練ったと言われています。

そしてこの日の夜・・・
行軍中の明智光秀は突然 「敵は本能寺にあり!」 の号令をかけ、軍勢を反転し、京都に向かって行軍し始めます!

ついに明智光秀が織田信長を撃つ宣言をした瞬間です!

この 「敵は本能寺にあり!」 の号令は後世の創作だとも言われていますが、歴史のクライマックスの1シーンとして欠かせない、有名な場面ですね。

そして明智軍はそのまま京都に近づくと、軍勢を二手に分け、密かに本能寺の包囲を開始します・・・
ただ、兵士や武将の多くは、京都に向かっているのは織田信長に軍勢の確認をして貰うためだと思っていたようで、本能寺を包囲する命令を受けた後も、討つ相手は徳川家康だと思っていた者が多かったようです。

【 天正10年(1582年)6月2日早朝 本能寺の変 】

まだ人々が寝静まっている時間、明智光秀は本能寺を完全に包囲します。

この時、明智光秀は少し迂回し、勝利のゲンを担ぐため 「破軍星(北斗七星)」 を背にして進軍したとも
言われています。

そして寺を包囲した明智軍は明け方になる頃・・・
鉄砲を撃ち放ち、同時に四方より本能寺に一斉になだれ込みます!

戦国を震撼させた大事件 「本能寺の変」 です!!

物音で目が覚めた織田信長は、最初は家臣のケンカかと思ったようですが、すぐに騒動に気付きます。

そして小姓(世話人)の森蘭丸に 「これは謀反か? 如何なる者の企てぞ!」 と聞き、森蘭丸が 「明智が者と見え申し候」 と答えると、一言 「是非に及ばず」 と答えたと言います。

その後、弓を持って応戦し、数本の矢を撃ちますが、そこで弓が折れてしまいます。

そのため薙刀に持ち替え、敵を突き伏せるなどして戦いますが、槍傷や左肩に鉄砲の銃撃を受けたため、応戦を断念。

奥の部屋に入り、森蘭丸に寺に火を放たせ、そのまま自害したと言われています。

本能寺討ち入りの指揮を取り、本能寺の炎上を確認します。

その後、織田信長の遺体を探すのですが、織田信長の遺体はなぜか最後まで見つかりませんでした。
一方、織田信長の長男 「織田信忠」 が少数の兵と共に京都の城 「二条城」 に入ったため、これを包囲して攻撃、一方で堺の町にいるはずの徳川家康に追っ手を差し向けます。

また、各地の街道を封鎖し、さらに戦闘終了後に朝廷に使者を出し、京都でこれ以上の戦闘を行わない事、朝廷や公家に危害を加える気はない事などを告げたと言います。

その後、捕らえた人物の戦後処理などをしつつ、京都の西に領地を持つ友人 「細川藤孝」 や、京都の南を支配していて明智光秀に恩のある大名 「筒井順慶」 などに協力を求める手紙を書くなど、各武将へ協力を要請する書状を送ります。

織田信長の長男で、織田家の跡継ぎである 「織田信忠」 も、その日は京都の別のお寺に宿泊していました。

騒ぎを聞いた織田信忠はすぐに兵を集めて本能寺に救援に向かおうとしますが、本能寺はすでに炎上。
間に合わないことを悟った織田信忠は一緒にいた信長の弟 「織田有楽斎」 に息子の 「三法師」 を預け、京都から脱出するよう命令すると、京都にある城 「二条城」 に入って防戦体勢を取ります。

しかし、一万以上の兵を持つ明智軍が相手では多勢に無勢、攻撃を受けて城は落城。
織田信忠も戦死してしまいます。

【 天正10年(1582年)6月2日 本能寺の変、直後 】 本能寺の変、当日の昼から夜

早朝の 「本能寺の変」 により、織田信長は死を迎えます。

京都は大騒動になりますが、しかし戦闘が一部地域に限定されていたため、何が起こったのかほとんどの人はまだ知らぬままでした。

いくら探しても信長の遺体が見つからないため、捜索を諦めて軍勢をまとめ、昼ごろに安土城方面に向かいます。

しかし、このために 「信長は逃げ延びたのでは?」 という噂が広まることとなります。
また、安土城への道の途中にある橋が焼き落とされていて、大きな軍勢は川を渡れない事を知ります。

そこで光秀は家臣の明智秀満に手勢を率いさせて安土城の制圧を命じ、同時に橋の修復を開始。
そして琵琶湖の南にある明智家の本城 「坂本城」 に帰還し、各勢力に協力を要請する手紙を書き続けました。

明智光秀の友人で、配下でもあったのが 「細川藤孝」 です。
彼は 「本能寺の変」 が起こった時、一足先に軍勢を率いて羽柴秀吉の救援に向かっている途中でした。
光秀は彼が仲間になってくれると信じていた様ですが・・・ 細川藤孝は本能寺の変の事を知ると、すぐに城に帰還。

息子 「細川忠興」 の妻である明智光秀の娘 「玉(細川ガラシャ)」 を幽閉すると、羽柴秀吉に 「本能寺の変」 の事を告げる手紙を送ります。

結局、彼は 「喪に服す」 と言ってこのまま城から出ず、明智光秀に味方することはありませんでした。

徳川家康の配下の三河武士であり、京都に店を持つ商人でもある 「茶屋四郎次郎」 が、京都で 「本能寺の変」 を目撃。

すかさず茶屋四郎次郎は店の金を持って徳川家康に急変を告げに行きます。
話を聞いて驚いた家康はすぐに脱出を考えますが、街道はすでに明智軍に塞がれていました。
この時、徳川家康は 「こうなっては仕方がない、近くの寺で自害しよう」 と言いだし、お供の本多忠勝に一喝されたとも言われています。

その後、お供の武将と共に今後を協議し、伊賀の山中を抜けて脱出することを決めます。


【 天正10年(1582年)6月3日 徳川家康 「伊賀越え」 】 本能寺の変、翌日

少数のお供と共に、堺の町を観光中に 「本能寺の変」 が起きた徳川家康。

兵を率いていなかった彼は明智光秀の追っ手によって孤立する事となってしまいますが、伊賀の山中を密かに抜け、本国・三河に帰ることを決定します。

堺の町で商家にかくまって貰いながら、配下の商人 茶屋四郎次郎 が先行して伊賀に向かい、脱出ルート上の村々に黄金をばらまいて協力を要請。

さらにお供の伊賀忍者 服部半蔵 が、伊賀の地にいる伊賀忍者・甲賀忍者に協力を要請しに向かいます。

そして少し遅れて徳川家康一行も伊賀に出発、明智光秀が封鎖している街道を避け、さらに土民の落ち武者狩りなどを撃退しながら、なんとか三河方面へと向かいます。

しかし共にいた元・武田家の武将 穴山梅雪 は、明智光秀に狙われている徳川家康との行動を避けて単独で落ち延びようとして失敗、土民の襲撃を受けて殺されてしまいました。

徳川家康は協力要請に応じてくれた甲賀忍者(多羅尾光俊)の屋敷に一泊し、そのまま伊賀・甲賀の忍者300余名に守られながら伊勢湾に出て、船で湾を渡って海上から三河に上陸。
なんとか 「伊賀越え」 を果たします。

結果として、明智光秀は徳川家康を取り逃がす事となりました。
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コメント

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一緒になでしこ見ていたテツ5歳が同点にされた途端「もう寝る」と言い出した。「形勢が悪くなったからといって応援をやめるのはいかん。卑怯者だ。最後まで応援しなさい」と指導した

でもまあ考えてみれば「形勢が悪くなったらさっさと仲間や地元や国を捨てて生き延びるのがこれからの時代は常識」とか若い人に盛大にアナウンスしてグローバル人材になれなれ、とかけしかけてたらすぐに寝返る卑怯者もまた増えるわな理の当然として

No title

PalmDogwoodを管理しておりますKenjiと申します。
この度、ブログを巡っていましたらたどり着きました。
投稿されています記事拝見致しました。
興味をそそる記事の数々でした。
是非とも今後のブログ運営の参考にさせて頂きたいと思いました。
長々しいコメント失礼致しました。


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