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日本人とインドネシア独立戦争

日本人とインドネシア独立戦争

大東亜戦争中、今村均(ひとし)中将が率いる第一六軍など総兵力5万5千人によってわずか10日間の戦闘でインドネシア全域が制圧された。日本軍によるインドネシア侵攻によって、330年もの長期にわたって続いたオランダのインドネシア植民地支配が終わった。

大東亜戦争中に日本軍の支援によりインドネシア人による軍隊(PETA)の結成や官僚の育成、法制度や教育体制の整備などを着々と進めたインドネシアは、日本軍が敗れた二日後の1945年8月17日、初代大統領に就任したスカルノは独立を宣言した。

ところが、日本軍に駆逐されたオランダは9月下旬、「インドネシア人は極めて従順な種族である。日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になるに違いない」と考え、インドネシアの独立宣言を無視してイギリス軍とともにインドネシアのスラバヤに上陸した。

しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。日本軍によって訓練され、日本軍の武器を持ったインドネシアの民衆軍に強襲され、イギリス軍はたちまち一個師団が全滅してしまう。

結局、スラバヤの市街地を占領するのに100日間も費やしたイギリスは軍事制圧を断念、和平交渉に転じ、1946年11月にイギリス・オランダ間で暫定的な協定が成立するや軍隊を撤退させてしまった。スラバヤ戦争で市街地を灰にし、約2万人もの犠牲者を出したことに対してイギリスは何ら謝罪も補償もしなかった。

イギリス軍は撤退したが、オランダはインドネシアの再植民地化をあきらめなかった。1947年7月、オランダは再びインドネシアに対して軍事行動をしかけた。このころ、東京裁判では、戦勝国の一員としてオランダは、インドネシア独立を支援した日本の指導者を「侵略戦争」を行った罪で裁いていた。

オランダ軍は戦車、飛行機、重機関銃など近代装備の部隊約10万人。インドネシア共和国軍は兵員こそ200万人だったが武器は日本軍より秘密裡に渡された小銃4万丁ぐらいで、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。

インドネシア軍は敗退を続けたが、オランダのこの「侵略戦争」は「世界中の非難」を浴び、国連安保理も「オランダの敵対行動の即時停止」を決議した。

しかし、オランダは占領地域からの軍隊撤退を拒否した。オランダはさらに攻撃を強め、軍事的にはオランダの勝利に終わったが、都市を無差別に爆撃したオランダに対し再び「国際世論」は激しい非難を浴びせかけた。

とりわけインドをはじめとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理もオランダに対してインドネシアから撤兵するよう勧告する決議案を採択した。

また、これ以上軍事行動を続けるならばオランダに対するマーシャル・プラン(アメリカによる欧州経済復興援助)を打ち切るべきだという声がアメリカ議会から出ていた。大東亜戦争では仲間だったアメリカはオランダを裏切ったわけだ。これによってオランダは折れ、ついに独立を前提とした和平交渉に応じた。


■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■

 ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が一緒に手厚く葬られている。

 1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア 独立義勇軍に身を投じた人々は、1~2千人程度と推定されている。

400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]

 これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。

■2.独立への願い■

 インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生産額の65%を独占するという収奪が続く。

  1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシアの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])

 独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。

■3.独立を戦いとれる実力を■

 その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。

攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。

 独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中将は、次のように言って、彼らを支援した。

「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」[4,p263]

 それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。こ
れらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。

■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■

 日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは すかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。

 しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保すべし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのである。

 一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。

 独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには、「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されているという。[4,p290]

■5.独立戦争への支援■

 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する人々が現れた。中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可を得るや、それを拡大解釈して、トラック何台分もの武器をチレボン河の河原に捨てた。対岸で待機していたインドネシア側がこれをごっそり手に入れた。

 こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡された。[4,p289]

 自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多かった。その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラグビーの名選手だった。スマトラのアチエ州で、地元の青年達を「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。

 昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をした。[2,p94]

 オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。

インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである。[5]

■6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ■

 平成7年5月29日、戦後50年を記念して、「アジア共生の祭典」が開かれた。ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアからは、スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを歴任したサイデマン外務省上級大使が参列された。

 サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、次のような挨拶をされた。

 第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います。[6]

 「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となったのである。
 
[参考]
1. 独立50周年のインドネシアを訪ねて、日本の息吹、H7.10
2. アジアに生きる大東亜戦争、ASEANセンター編、展転社、S63
3. インドネシアで顕彰される元日本兵たち、祖国と青年、H7.11
4. アジア独立への道、田中正明、展転社、H3
5. オランダの戦争責任、祖国と青年、H6.10
6. 日本よ、勇気と自信を回復せよ-サイデマン外務省上級大使
  との対話、祖国と青年、H7.7
7. JOG(2) 国際社会で真の友人を得るには
 インド独立50周年を記念して、昨年8月に代々木公園野外ステージで開催された「インドの夕べ」では、インド側代表の最高裁弁護士ラケッシュ・デヴィーディ氏が「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れません」と、語った。インド解放を
狙ったインド国民軍と日本軍合作のインパール作戦からインド独立までのあゆみを紹介。

………………………………………………………………………………

3.インドネシア独立を担った人々が語る日本人との心の交流。

………………………………………………………………………………
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog193.html


■1.二人のインドネシア人■

大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。

1950年8月に成立したインドネシア共和国の首相モハマッド・ナチールはこう語る。

もう一人、日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、義勇軍設立と幹部教育に尽力し、独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。

オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。

もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国は、オランダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。

 インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。

■2.日本軍にびっくり■

ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部のジョグジャカルタの高校生だった。当時はほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。

1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。 町が急にあわただしくなってきました。それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っておりましたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われていました。

しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。ジョグジャカルタでは戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまいました。

インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。

それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア人ははじめて自由というものを感じました。大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。インドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。

ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、さらにびっくりしました。

■3.画期的な教育政策■

日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。

しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけた。第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。

日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・

ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。

日本軍は行政機構への現地人登用を進め、ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。そして権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。

教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、ナチールはインドネシア人としての自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。

本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。また日本軍からインドネシア語の外に地方語の教育も勧められていたので、バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。

■4.熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない■

半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平が赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、インドネシアとは関係の深い外交官だった。

姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。

日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。

次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。

そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。

インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。

ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。

■5.「青年道場」■

ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから希望者は集まれ、というビラが貼り出された。日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、絶好の機会だと思って、すぐ応募した。

数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為 に、ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」 に派遣された。

青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。

しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。

訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。

■6.日本軍の率先垂範教育■

青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。

実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。

ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。

私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。

土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。

 同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会っています。

ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。

そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげら れると思います。

■7.「ムルデカ17805」■

ナチールは独立後の首相となり、またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。独立は自らの力で勝ち取るものであり、そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、見事に奏効したと言える。

この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、ナチールやルビスに伝わったのである。

日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。

この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1~2千名の日本兵が、独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地にもインドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手厚く葬られている。[a,b]

インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、現在上映中の映画「ムルデカ17805」[c]に描かれている。ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。

我々の父祖の世代が、どのような思いでインドネシア独立に身命を投じていったのか、この映画を通じて偲ぶことができる。(文責:伊勢雅臣)
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■憲法改正の早期実現を求める国会議員署名について

賛同国会議員441名(10月18日現在)

■国会における憲法議論の推進と国民的議論の喚起を求める意見書採択について

地方議会にて43都道府県 /112市区町村(令和3年1月10日)

■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野、福島、北海道、島根、鳥取、青森、奈良、広島

【北海道1】恵庭市【東北3】 三沢市、野辺地町(青森県➋) 二本松市(福島県❶)【関東32】 常総市(茨城県➊)/千葉市、酒々井町(千葉県➋)/久喜市、三芳町(埼玉県➋)/荒川区 中野区、目黒区、足立区、日野市、府中市、町田市、調布市、狛江市、小笠原村  (東京都➓)/横浜市 藤沢市 茅ケ崎市 逗子市 大和市 海老名市 座間市 秦野市 伊勢原市 厚木市 横須賀市 愛川町 寒川町 川崎市 平塚市 小田原市 箱根町(神奈川県⑰)【北陸8】舟橋村 立山町 入善町 滑川市 富山市(富山県➎)/羽昨市 七尾市 内灘町(石川県➌)【東海2】坂祝町(岐阜県❶) 飯島町(長野県➊)【近畿7】綾部市、伊根町、与謝野町(京都府➌)/大阪市 和泉市・貝塚市(大阪府➌)/田原本町(奈良県➊)【中国 1】 岩国市(山口県) 【四国 4】 松山市・今治市・四国中央市・東温市(愛媛県❹)【九州 46】 川崎町 遠賀町 大川市 篠栗町 芦屋町 行橋市 春日市 糸島市 大木町 北九州市 柳川市 福岡市 大野城市 大牟田市 久留米市 筑紫野市 那珂川市 八女市 新宮町 須恵町 遠賀町 糸田町 大仁町 嘉摩市 宗像市 豊前市 うきは市 飯塚市 直方市 宇美町 東峰村 香春町(福岡㉜)/鳥栖市・神埼市(佐賀県➋)/佐世保市・大村市・対馬市(長崎県➌)/合志市 多良木町 熊本市 八代市 玉名市 荒尾市 菊地市 天草市 菊陽町(熊本県➒)


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コメント

友好と国益の両立

‥結局、先の大戦で馬鹿をみたのは日本でした(;;)

もちろん、特亜3兄弟とは違い東南アジア諸国は
悪意を持って日本を利用したのではありませんし、
独立自尊に貢献できたのは素晴らしいことです。

これからアジア経済共同体の時代のようですが
日本は東南アジア諸国との親密な友好関係とともに
我が国の繁栄をしっかりと守っていきたいものです。

インドネシア

参考資料: 「戦後50周年アンケート」(1995年読売新聞の世論調査)
『第2次世界大戦中に行なった行為は、今でも日本との関係の発展を妨げているか?』

妨げている
韓国     71%
中国     49%
タイ      36%
マレーシア  25%
ベトナム   13%
インドネシア 12%

日本に対して良いイメージを持っている
ベトナム   95%
マレーシア  94%
タイ      80%
インドネシア 72%
中国      53%
韓国      30%


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プロフィール

日本会議地方議員連盟

  • Author:日本会議地方議員連盟
  •  日本会議(会長 田久保忠衛・杏林大学名誉教授)は、平成9年5月、各界代表や都道府県代表が参加して設立されました。元気で誇りある国づくりをめざして、超党派の国会議員懇談会(会長 古屋圭司)の皆さんとともに全国で国民運動を推進しています。

     このたび、日本会議に所属する全国の地方議員が連携し、地方議会から「誇りある国づくり」を発信するため日本会議地方議員連盟を設立しました。(平成17年3月6日)

     議員連盟では、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹に関わる基本問題に連携してとりくむネットワーク作りを進め、「憲法・教基法」の改正をめざします。

     議員会員(年間1万円)には、会員専用サイトを設け、国会の動き、時局問題に対する見解、全国地方議会の動きなど国民運動情報を提供します。
    皆さんどうぞご入会ください。

    入会はこちらから

     ●日本会議地方議員連盟へのご入会の案内20070112155311.jpg

    ■設立趣意書

     戦後わが国は、日本の弱体化を企図した占領政策の桎梏から抜け出せないまま、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹にかかわる基本問題について、多くの病弊を抱えたまま今日に至っている。

     近年、新教育基本法の制定、国民投票法案の成立、さらには防衛賞昇格など、戦後体制を脱却する動きは注目すべきである。しかしながら、その潮流はまだ大きなものとはなっていない。

     この時にあたり、今こそ発言し行動する真正保守の結集が問われている。ここに志しある地方議員は「誇りある国づくり」をめざす日本会議と連携し、地方議会よりその動きを起こし、日本の国柄に基づく新憲法制定へ向け日本会議首都圏地方議員懇談会を設立する。

     全国の良識ある地方議員が我々の趣旨に賛同され、あまたの先人が築いてこられた、この祖国日本を再建するため、我々は、下記の基本方針を掲げて献身することを誓うものである。

        (平成十九年十月六日)

    〈基本方針〉
      
    1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。

    2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。

    3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。

    4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。

    私たちはめざします。
    全国に3000名議員集団を!

    「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組みむ日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。

    ①改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。

    ②青少年の健全育成や、ジェンダーフリー思想から家族の絆を守る運動を推進します。

    ③議会制度を破壊しかねない自治基本条例への反対など保守の良識を地方行政に働きかけます。

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閲覧者数平成19年8月15日カウンター設置
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憲法改正を実現する1,000万人ネットワーク 美しい日本の憲法をつくる国民の会

憲法改正早期実現国会議員署名


■  422名  (11月21日現在)




憲法改正早期実現意見書採択可決


■36都府県 /59市区町村議会

■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野

■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決


辺野古移設賛同  地方議員署名


■現在署名数 1812名(231議会)




私たちのめざす 方針と活動



一、新教育基本法に基づいた教育改革と教科書採択を推進する

一、議場への国旗掲揚を推進し、地方から誇りある国づくりを提唱する

一、議会否定につながる自治基本条例を阻止し、議会活動を活性化する

一、ジェンダー思想を相対化する、家族の絆を守る運動を推進する

一、時局問題への対応を敏速に行う

一、研修会、講演会を開催し、会員相互の見識と親睦を深める

一、全国に3千名の地方議員ネットワークを形成する

…………………………………………………………………………

■【人権救済法案問題】
●人権侵害救済法案に反対する意見書案

※人権侵害救済法案の問題点について

…………………………………………………………………………

■【自治基本条例問題】   
議会否定につながる自治基本条例の阻止を

①自治基本条例の問題点について

②外国人に対する住民投票権の付与について

……………………………………………………………………………

■【議場の国旗掲揚推進】
地方議会議場での国旗掲揚について

……………………………………………………………………………

■【外国人参政権問題】
●外国人参政権に反対する意見書採択について

反対決議は362市町村議会(H22年9月1日現在)

慎重議員署名4071名・535議会(同年9月1日現在)

慎重首長署名568自治体(7県知事221市区340町村長・同年9月1日現在)

………………………………………………………………………………

 

尖閣諸島上陸許可要望議員署名


      ↓
■議員署名用紙

現在 4182名
(387議会)

詳細はこちらをクリック

石垣市長・議長連名のお願い文ご活用下さい
      ↓
●石垣市連名の議員署名のお願い文







 
 
 
 

議会否定の自治基本条例