03 月<< 2017年04 月  123456789101112131415161718192021222324252627282930  >>05 月
 

飢饉は天災ではなく人災である-大塩平八郎生誕日

今日は何の日 3月4日 大塩平八郎の生誕日

大塩 平八郎、1793年3月4日(寛政5年1月22日) - 1837年5月1日(天保8年3月27日))は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱(天保8(1837)年2月19日)を起こした。

ohshio6.jpg

天保八年(1837年)二月十九日・八時、春とはまだ、名ばかりの寒い朝でした。大阪の町の人々は、天満の方角に轟いた砲声に驚いて目を覚まします。続いて、はげしい火の手が上がり、おりからの強風にあおられてまたたく間に市中に広がりました。

元大阪町奉行所与力・大塩平八郎が自宅に火を放って、乱を決行したのです。

着込みの野袴に、白木綿のハチマキを巻いた総大将・大塩を先頭に、『天照皇太神宮』『湯武両聖王』『八幡大菩薩』『東照大権現』などと書かれた旗をを持ち、『救民』と大きく染め上げられたのぼりを風になびかせて、集合場所の川崎東照宮から天満橋筋を南下してきます。

oosio-gekibun1111.jpg
大塩檄文(成正寺蔵)
その姿は、いかにもまちまちで、陣羽織を着ている者、はっぴ姿の者、火事頭巾をかぶっている者もいる、二問の大砲を備え、それぞれ槍や刀や長刀、中には武器らしい武器を持っていないため、鍋や釜など家にある武器になりそうな物をとりあえず手にしている者もいる、そんな集団が、騒ぎを聞きつけて集まってきた周囲の人々に「味方につけ!」と声をかけながら進軍して行きます。

淀川に架かる天満橋までやってきた軍団は、ここで橋を渡らず、西に進路を変え、天神橋をめざします。しかし、天神橋が幕府によってすでに落とされていたために、そのまま淀川沿いを西へ向かい、難波橋を南下して、北船場の指しかかろうとした正午頃には、総勢300人の大部隊になっていました。

北浜・北船場に入った軍団は、豪商の家を次々と襲撃して回ります。やがて、進路を東に変え、高麗橋を渡り、東町奉行所から大阪城をめざしたところで、大阪城から出陣してきた幕府軍と壮絶な戦闘状態に入ります。

幕府軍は、城代・土井利位(としつら)の指揮のもと、加勢を求められた藩兵たちが戦陣を固めます。そうなると、大塩軍の形勢は見る間に悪くなっていきます。なんせ、向こうは武士・戦いのプロたちです。こちらは、大塩の弟子の一部を除けばほとんどが、近隣の貧しい農民や、差別部落の人たちです。

2度目の砲撃戦で死者がでたのをきっかけに、軍団は散り散りになってしまい、夕方4時頃には、見物人の群集にまぎれて集団の形でなくなり、姿を消してしまいました。

これが世に言う『大塩平八郎の乱』です。

その生い立ちと敏腕与力時代

大塩平八郎は、寛政五年(1793年)に、大阪・大塩家の八代目として、初代からの屋敷であった天満で生まれました。

現在、造幣局宿舎内にある『洗心洞跡』の石碑が立っている場所が、屋敷跡です。初代の六兵衛成一は、名古屋にある本家・大塩右衛門義勝の三男で、大阪町奉行所付きの与力となり、石高二百石、実収八十石、代々その職を継承してきました。悪い待遇ではありませんでした。

平八郎は、七歳の時に父母と死別してから、祖父と祖父の後妻に養育されます。不正を許せない実直な性格は、しつけに厳しかった継祖母の影響を強く受けていると言われています。

祖父母のお墓は大塩家代々の菩提寺・蓮興寺にあります。

14歳で早くも与力見習いとして出仕し、その後正式に祖父の後を継いで与力になりました。その頃からすでに、『陽明学』を学んでいたと言われていますが、当時の思想界では、『朱子学』という思想が盛んで、平八郎の学習はほとんど独学に近い物でしたが、すぐれた文人たちと交流することによって、その感性を磨いていってものと思われます。

この頃平八郎はお見合い結婚をします。 (たしか奥さんは、平八郎の叔父で吹田にある泉殿宮(いづどのぐう)の宮司の娘さんだったように記憶していますが、どこでその情報を小耳に挟んだのか忘れてしまい、HPに書くにあたって事実かどうか確認できません。もし、違っていたらごめんなさい)

与力時代の平八郎は、きわめて真面目な役人でした。それは、上司や同僚から見て優秀な人材とも言えますし、逆に融通の利かない煙たい存在とも言えます。

与力・中嶋家の役宅 平八郎が、東町奉行所で敏腕与力として、名を馳せた頃は、上司にも恵まれていました。文政三年(1820年)に赴任してきた高井実徳(さねのり)です。

高井は、平八郎を高く評価し、平八郎も高井の下でのびのびその腕をふるいます。

後に『三大功績』と呼ばれる大きな民政上の事件を解決するのもこの頃です。文政十年(1827年)の切支丹逮捕、文政十二年(1829年)の奸吏糾弾(かんりきゅうだん)、そしてその翌年の破壊僧遠島事件。

文政六・七年(1823~4年)頃、自宅内に『洗心洞』(私欲を洗い、心深く包蔵する)という陽明学の塾を開設します。
集まった人の多くは、近隣の村役人や奉行所仲間、親戚などでした。この頃は、陽明学者としてよりも、みごとに事件を解決する敏腕与力として、大阪の人々の胸に焼き付いたようです。

しかし、人々が絶賛した事件解決の一つが、平八郎の心の中に静かに波を立たせ始めるのです。それが、2番目の奸吏糾弾の一件です。

この事件は、西町奉行所・内藤矩佳(のりよし)のお気に入りだった与力・弓削新左衛門(ゆげしんざえもん)が四ヶ所の役人と結託して悪事を働いた事を、平八郎が摘発して弓削を切腹に、その仲間の与力・同心・役人の十数名を処刑に追いやった事件でした。

これは、、明らかに内部告発。外の人間から見れば勇気ある行動ですが、奉行所内部の人間からは恨みを買い、疑心を抱かれる結果となります。しかし、奉行所内には、他にも様々な腐敗や利権がうごめいていて、平八郎の性格上、事実を知っていてそのまま見過ごす事ができません。

奉行所内部の不正を暴き続けていて、はたして奉行所に自分の居場所がある物なのか?そんな思いを抱くようになってきます。

三十八歳で与力を辞職

文政十三年(1830年)、三十八歳になった平八郎は、目付役筆頭・地方役筆頭・盗賊役筆頭・唐物取締役筆頭・諸御用調役などの奉行所の重役を兼務する与力としては、最高と言えるぐらいのぼりつめていました。

それも、やはり平八郎を高くかってくれていた奉行・高井のはからいと、それに答えた平八郎自身の働きによる物ですが、奉行所内部への不信感は、未だ消えずにくすぶっていました。

そんな時、揺れ動く平八郎の気持ちを、辞職へと決意させる出来事が起こります。尊敬をしていた上司・高井が高齢を理由に、奉行を辞職する事を幕府に願い出たのです。それと同時期にあの奸吏糾弾の一件に絡んでいたかもしれない西町奉行所の内藤矩佳が、江戸に戻り、勘定奉行に昇進する事が決まりました。

実はこの時、平八郎は内藤の汚職のネタもつかんでいたのです。しかし、それは大坂町奉行所全体に広がる巨大な物で、外部に漏れれば幕府さえも揺るがす大事件に発展する可能性を秘めていました。

内藤が江戸に戻り、昇進したあかつきに、事件の揉み消しにかかる事は、容易に想像できました。

このまま与力でいれば、その不正を暴かずにはいられない・・・しかし、事件解決後のフォローしてくれる高井は、もういない・・・役人としてできる事もたかがしれている、ここはいっその事、奉行所を辞めて自由の身になったほうが・・・平八郎の中で、いろんなパターンのシチュエーションが浮かんだに違いありません。

そして、辞職を決意します。「洗心洞で、教育に専念したい」それが、平八郎の表向きの退職理由でした。子供のいなかった平八郎は、弟子のひとり・格之助を養子に迎えて、職を譲り隠居します退職後の彼は、朝は常に八つ(午前2時)に起きて天象を見て、門人を集めて講義をします。

真冬でも雨戸を開けたまま、門人は皆寒さに耐えられない中、平八郎だけは平然としていて、その鋭い気迫に門人たちは、誰一人としてその顔を仰ぎ見ることすらできなかったと言います。

天保の大飢饉

時は天保となり、江戸では、十一代将軍・家斉の寵愛を受けて、幕府の実権を握っていたワイロ大好きの水野忠成(ただあきら)が亡くなり、変わってまじめ人間の大久保忠真(ただざね)が幕政の実権を握ることになりました。

大坂では、平八郎が陽明学の学者として知られるようになり、ちょうどその頃、天保四年(1833年)から数年間続くことになる『天保の大飢饉』をどう乗り切るかが問題になり始めていました。

『民政の平八郎』の名前は、大久保の耳にも届き、「江戸へ来て政見について意見を聞かせてくれ、力をふるってほしい」という話が持ち上がります。

平八郎は、おおいに喜び、「もしそういう事があるならば、一身を投じて徳川のために尽くしたい」と思っていました。
しかし、その話はウワサのまま終わり、本当に江戸に呼ばれる事はありませんでした。

天保の大飢饉 やがて、天保の大飢饉が深刻になる頃、急激に頭角を現したのが、水野忠邦でした。そんな時、50年続いた十一代将軍・徳川家斉にかわり、徳川家慶が十二代将軍を継ぐことになりました。

幕府のメンツを保つためにも、ここは代替わりの儀式を派手に行わなくてはなりません。しかし、世は飢饉の真っ只中です。そこで、水野が目を付けたのが、天下の台所・大坂でした。

高井が退いた後、町奉行に就任していた良識派の矢部定謙(さだかね)を江戸に帰し、自分の弟・跡部良弼(よしすけ)を、町奉行として大坂に派遣します。

天保七年(1836年)になって、東町奉行に就任した跡部は、大坂市中や近在の米の値段が暴騰するのをしり目に、『将軍交代の準備』という名目で、せっせせっせと米を買い付け、江戸に回します。そうなると、市中の豪商たちも、それを利用して平気で米の値段を吊り上げにかかります。

平八郎は、自分の考えた『飢饉救済策』を、何度も町奉行・跡部にうったえますが、跡部には、水野忠邦という強力なバックもおり、元与力の隠居の意見など聞くはずがありません。「与力の隠居ふぜいが身分をわきまえない事をしつこく言うのならのなら、お前を牢屋にぶち込むぞ」とまで言われてしまいます。

米の値段は、6・7倍に跳ね上がり、一部の裕福な商人を除いてはほとんどがその日暮らしの状態。しかたなく、道端で物貰いをしますが、この飢饉では物を恵んでくれる人もなく、餓死する人は一冬で5千人達したと言います。

それでも市民たちは、必死にその日その日の食料を得るために、五合・一升というわずかな米を、どこからかやっとの思いで手に入れるのですが、それは闇米だ、規則違反だ、と奉行所役人がひっ捕まえて牢屋行きです。

そんな有様でも、市中はまだ「鳩のエサ」と言われながらも、わずかばかりの救済がありましたが、大坂近在の村々は、どこからも米が入らず救済もなく、もっと悲惨でした。

もう我慢でけへん!

そんな時、甲斐一国騒動、三河加茂一揆と各地に、一揆や打ち壊しの騒動が起きているウワサが大坂にも伝わってきました。

平八郎は、「このままでは、大坂でも一揆や騒動がいつ起こって不思議ではない」と、もう一度町奉行に訴えますが、やはり跡部はいっこうに耳を傾けようとはしませんでした。

「奸吏糾弾の事件後、また再び与力たちは不正に走り、四ヶ所の役人たちものさばり出し、しかも今回は町奉行までもが、飢饉の救済もせず江戸の水野のほうばかり向いている。もう、これ以上は無理だ。待っていられない。」
今回はもう、以前のように、役人だけのトカゲのしっぽ切りでは、済ませられません。

きっちりと幕府に訴えて幕政そのものを洗濯しよう。

そして、彼にはもう一つ、待っていられない理由がありました。持病のけっかくが徐々に体をむしばみ始めていたのです。

平八郎は決意します。 9月に入った頃平八郎は、自宅に山のようにあった本を一冊残らず売り払います。
「本の虫のアンタが・・・」と驚く奥さんに「内容はすべて頭の中に書いてあるから必要ない」と言いました。

奥さんが、タンスの引き出しを開けてみると、中身はからっぽ・・・着物もすべて売り払われていました。そして、平八郎は、奥さんに離縁状をつきつけます。

この時、奥さんはすべてを察したと思います。乱を起こすという事は、幕府に弓を引く極悪人、本人はもちろん、家族・親類にも刑が科せられます。離縁をする・・・という事は、心が揺るぐ事はない、もうきめたぞ!という証でした。

家にある物、全てを売り払ったお金で、平八郎は爆弾の製造に取り掛かります。

10月には、洗心洞の信頼できる塾生のうちあけ、翌年(天保八年・1837年)の正月には、有名な『檄文』も書きあがり、版刷りにかかりだしました。

『檄文』とは、乱の直前に大坂近郊にバラまかれたこの乱の趣旨を伝えるビラです。

この間に平八郎は、大坂町奉行所の不正の数々、江戸に行った勘定奉行・内藤の真実の暴露、巨大汚職に関する書類をせっせとまとめあげていました。

いよいよ機は熟しました。挙兵の日も二月十九日に決定しました。

それは、赴任してきたばかりの西町奉行・堀利堅(としかた)が、東町奉行の跡部の案内で、天満を巡回する日だったからです。途中、朝岡邸で休息する時間を狙って、ふたりを一挙に爆死させる計画です。

そして、その前日、書き溜めた数々の書類を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託しました。

しかし、計画は裏切り者の密告によって、奉行所側にバレてしまいます。それで、しかたなく急遽、時間を早めて混乱のうち、冒頭に書いたとおり、朝八時に強行されたのです。おかげで、跡部と堀は命拾いします。

この頃米価はますます値上がりして、大坂の奉行・諸役人は庶民に対するいつくしみを忘れ、勝手な政治をしている。
その上わがままな命令を何度も出し市内の悪徳高利貸し・大商人だけを大切にしている。

私たちは、もう堪忍ができない。やむなく天下のためを思い、罪が一族・縁者におよぶ事もかえりみず、有志と相談し、庶民を苦しめている諸役人を攻め討ち、さらにおごりたかぶる悪徳町人・金持ちを成敗する。

生活に困っている者は、大坂で騒動が起こったと聞いたなら、いくら遠くても、一刻もはやく大坂へ駆けつけてくれ。
その者たちの貯えていた金銀や隠しておいた米を皆に配分したい。

乱の終結

夕方には、散り散りになってしまった軍団。首謀者の平八郎と養子・格之助は人ごみに紛れて、天満橋の八軒屋船着場から船で逃走しました。

あっけなく乱が鎮圧されてしまい、豪商から奪った米を庶民に分け与える事もできず、いたずらに火事を起こして被害を大きくし、目的が達成できないまま、百姓一揆にも劣るような有様に、平八郎自身が一番はがゆかったに違いありません。

しかし、それでも命ながらえたそのワケは・・・やはり、「これで何か変わるかもしれない」という思いでした。誰も、はなから幕府を倒そうなどとは、思っていません。

「この騒ぎが江戸に伝わり、あの密書が届いたなら、江戸で何かが起こり、幕藩体制に変化があるかもしれない。」
そう思って大塩親子は隠れ家に身をひそめ、世間の様子を伺っていたのです。

しかし、そのわずかな希望も、箱根の山中で平八郎が出した木箱の書類入れが発見され、ついに消えてしまいます。
定飛脚(じょうびきゃく)が急病のため、牢抜けしてきた知人に頼みましたが、箱根から三島宿に転送される途中で開封され、宛先の江戸の幕閣には届きませんでした。

挙兵から40日経った3月27日、大坂市中の靭油掛(うつぼあぶらかけ)町の隠れ家に潜伏していた大塩親子を、大坂城代・土井利位と家老・鷹見泉石(たかみせんせき)の率いる探索方がとり囲みます。

その事に気づいた大塩親子は、かねてから用意してあった爆薬に火をつけて、壮絶な爆死を遂げました。焼け跡から引きずりだされた死体は、顔が識別できないくらい黒こげになっていたと言います。

幕府はこれで、乱が終結した・・・と安堵したに違いありません。しかし、これからが幕府の予想を超える『大塩の乱・第二幕』の始まりだったのです。

ちまたに飛び交う大塩生存説

挙兵に参加した人々の大半は、周囲の村々の農民でしたから、大塩の大火で焼け出された人々は、いわば乱のとばっちりで、何の関係もなく火事にあってしまった大坂市中の町民たちです。

にもかかわらず、町民は誰一人として平八郎を恨むことなく、大塩親子がまだ潜伏中の頃などは、「たとえ賞金が銀百枚に増えようが大塩さんを売ったりするか!」といったようすでした。

町はそんな風でしたから、面体の識別できない死体は、様々な憶測を呼ぶことになります。数日後には、早くもアノ死体は影武者のものだという噂が大坂市中に流れ、町奉行の市内巡回が中止になってしまうという事態がが起こります。

その後、平八郎の影は様々な所で出没するようになり、噂が噂を呼んで、平八郎は船に乗って清国(中国)へ逃亡した、いやシベリアに逃げた、などの噂が飛び交います。

ちょうど、その頃、江戸湾深くにアメリカのモリソン号が侵入してきており、平八郎はアメリカに助けられ一緒に幕府を攻めに来るという話まで、まことしやかにささやかれるようになります。

また、乱の前にばらまいたアノ『檄文』が、人から人へ伝わり、回りまわって、その文に刺激された国学者・生田万(いくたよろず)が、遠く越後(新潟)・柏崎で発起したり、大塩門弟と名乗る人物が摂津・能勢で兵を挙げたり・・・といった事が各地で起きるようになりました。

しかし、それにもかかわらず、どういうわけか大塩一党への処刑は翌年の天保九年(1838年)になってもおこなわれる事はありませんでした。

多くの人は、そのことを不思議がり、「大塩親子、昨年死せしは偽りにて、今以って生存するなり」という文まで出回り、その都度、幕府を震撼させました。

しかたなく、幕府はその年の9月になって、やっと彼らの処刑を行います。しかし、その光景は異常なものでした。

十九のはりつけの柱には、たった一人を除いて、塩漬けの死体がぶら下げられていました。当然、どれが誰の死体かすら判別できません。

その日、大坂飛田の処刑場に見物にきた人々は、はたして自分の見たものが、本当に平八郎の死体なのか?と逆に生存説をいっそう掻きたてることになってしまいます。

徳川幕府にとっては、大塩平八郎は、たいへんな反逆人ですから、その後も必死になってあることないこと平八郎の悪い噂を流し続けますが、大坂市中の町民も、周辺の農民も、そのような中傷はガンと跳ね除けて、「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」という気持ちを強く持っていて、アノ『檄文』をひそかに隠し持って、永く手習いの手本にしたと言います。

天下の台所・大坂で、しかも元幕吏によって起こされたこの事件は、幕府にも、一般市民にも大きな影響をあたえました。

明治維新をさかのぼること30年前の出来事・・・平八郎が生きていたらどのような維新を迎えた事でしょう。
関連記事



■憲法改正の早期実現を求める国会議員署名について

賛同国会議員441名(10月18日現在)

■憲法改正の早期実現を求める意見書採択について

地方議会にて36都府県 /59市区町村

■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野

■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決


■本会FACEBOOK■

憲法改正を実現する1,000万人ネットワーク 美しい日本の憲法をつくる国民の会

美しい日本の憲法をつくる国民の会結成 http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6361.html


■日本会議の動画を見る■
●日本会議のyoutubeを見る
■日本会議書籍コーナー■

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

( ゚∀゚)アハハハハ八八ノヽノヽノヽノ\/\

ムサシがあるから大丈夫!!!!!!!!!
支持率も絶対落ちないから!!!!!!

春田晴郎‏ @HarutaSeiro

6年前の3月11日、揺れがひとまず収まった後、研究室にはTVがないので、とりあえずアルジャジーラ視てみた。3時前に東京の様子を速報で伝え、3時のニュースでは、トップこそリビア情勢に譲ったものの、後はずーっと地震について。NHK国際の映像使ってたと思うけど、最初の津波もそれで見た。

この時のアルジャジーラに、世界のニュースを伝えるメディアのあるべき姿を見た。日本のメディアとは比較にならない。


 編集・削除ができます。
 管理者にだけ表示を許可する
 

最近の記事

プロフィール

日本会議地方議員連盟

  • Author:日本会議地方議員連盟
  •  日本会議(会長 三好達元最高裁長官)は、平成9年5月、各界代表や都道府県代表が参加して設立されました。元気で誇りある国づくりをめざして、超党派の国会議員懇談会(会長 平沼赳夫前経済産業大臣)の皆さんとともに全国で国民運動を推進しています。

     このたび、日本会議に所属する全国の地方議員が連携し、地方議会から「誇りある国づくり」を発信するため日本会議地方議員連盟を設立しました。(平成17年3月6日)

     議員連盟では、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹に関わる基本問題に連携してとりくむネットワーク作りを進め、「憲法・教基法」の改正をめざします。

     議員会員(年間1万円)には、会員専用サイトを設け、国会の動き、時局問題に対する見解、全国地方議会の動きなど国民運動情報を提供します。
    皆さんどうぞご入会ください。

    入会はこちらから

     ●日本会議地方議員連盟へのご入会の案内20070112155311.jpg

    ■設立趣意書

     戦後わが国は、日本の弱体化を企図した占領政策の桎梏から抜け出せないまま、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹にかかわる基本問題について、多くの病弊を抱えたまま今日に至っている。

     近年、新教育基本法の制定、国民投票法案の成立、さらには防衛賞昇格など、戦後体制を脱却する動きは注目すべきである。しかしながら、その潮流はまだ大きなものとはなっていない。

     この時にあたり、今こそ発言し行動する真正保守の結集が問われている。ここに志しある地方議員は「誇りある国づくり」をめざす日本会議と連携し、地方議会よりその動きを起こし、日本の国柄に基づく新憲法制定へ向け日本会議首都圏地方議員懇談会を設立する。

     全国の良識ある地方議員が我々の趣旨に賛同され、あまたの先人が築いてこられた、この祖国日本を再建するため、我々は、下記の基本方針を掲げて献身することを誓うものである。

        (平成十九年十月六日)

    〈基本方針〉
      
    1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。

    2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。

    3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。

    4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。

    私たちはめざします。
    全国に3000名議員集団を!

    「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組みむ日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。

    ①改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。

    ②青少年の健全育成や、ジェンダーフリー思想から家族の絆を守る運動を推進します。

    ③議会制度を破壊しかねない自治基本条例への反対など保守の良識を地方行政に働きかけます。

    【役員紹介】

    役員一覧

カテゴリー

ブログランキング


閲覧者数平成19年8月15日カウンター設置
現在の閲覧者数: banner.gif←他サイトも参照下さい。



憲法改正を実現する1,000万人ネットワーク 美しい日本の憲法をつくる国民の会

憲法改正早期実現国会議員署名


■  422名  (11月21日現在)




憲法改正早期実現意見書採択可決


■36都府県 /59市区町村議会

■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野

■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決


辺野古移設賛同  地方議員署名


■現在署名数 1812名(231議会)




私たちのめざす 方針と活動



一、新教育基本法に基づいた教育改革と教科書採択を推進する

一、議場への国旗掲揚を推進し、地方から誇りある国づくりを提唱する

一、議会否定につながる自治基本条例を阻止し、議会活動を活性化する

一、ジェンダー思想を相対化する、家族の絆を守る運動を推進する

一、時局問題への対応を敏速に行う

一、研修会、講演会を開催し、会員相互の見識と親睦を深める

一、全国に3千名の地方議員ネットワークを形成する

…………………………………………………………………………

■【人権救済法案問題】
●人権侵害救済法案に反対する意見書案

※人権侵害救済法案の問題点について

…………………………………………………………………………

■【自治基本条例問題】   
議会否定につながる自治基本条例の阻止を

①自治基本条例の問題点について

②外国人に対する住民投票権の付与について

……………………………………………………………………………

■【議場の国旗掲揚推進】
地方議会議場での国旗掲揚について

……………………………………………………………………………

■【外国人参政権問題】
●外国人参政権に反対する意見書採択について

反対決議は362市町村議会(H22年9月1日現在)

慎重議員署名4071名・535議会(同年9月1日現在)

慎重首長署名568自治体(7県知事221市区340町村長・同年9月1日現在)

………………………………………………………………………………

 

尖閣諸島上陸許可要望議員署名


      ↓
■議員署名用紙

現在 4182名
(387議会)

詳細はこちらをクリック

石垣市長・議長連名のお願い文ご活用下さい
      ↓
●石垣市連名の議員署名のお願い文







 
 
 
 

議会否定の自治基本条例