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天狗党の乱。筑波山で藤田小四郎ら62名が蜂起。

今日は何の日 5月2日 1864年(元治元年3月27日) - 天狗党の乱。筑波山で藤田小四郎ら62名が蜂起。

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明治維新を4年後に控えた元治元(1864)年3月27日(新暦5月2日)、茨城県の筑波山で水戸藩の志士達62名が挙兵しました。

彼らは自らを「天狗党(てんぐとう)」と称し、「尊王攘夷」を旗としました。水戸藩は、尾張、紀伊と並ぶ、徳川御三家のひとつです。

尊王攘夷と聞けば、薩長土肥の幕府と敵対した勢力というイメージを持つ方が多いですが、実は、尊王攘夷の火の手は、徳川側、それも御三家の水戸藩からあがったのです。

天狗党を名乗った彼らは、筑波山から日光東照宮を目指して進軍しました。途中、栃木県の太平山に登り、山頂にある大平山神社に参拝しました。

大平山神社は、国を太平に治め、社会を平和に導き、家内の安全を守り、商業を繁栄に導き、人々を守護する祈願成就の神様がご鎮座あそばしている神社です。そして、大平山から、彼らは四方に檄文を飛ばしました。

東照大権現(徳川家康)と、大平山の参拝を終え、旧暦の5月末に筑波に戻ってきたとき、天狗党は、総勢1400名の大部隊となっていました。大盛況です。天狗党幹部は「真の尊攘ここに結す!」と喜びました。

ところが、兵の増加はそのまま兵糧(食)と寝所(住)と金子(銭)の手配の増加を生みます。このため彼らは、軍用金調達と称して、豪商や豪農のもとに向かいました。財貨や食糧を調達するためです。

そして従わない者や反抗的な態度をする者を問答無用で一刀両断に斬り捨てました。それを「正義のため」としました。けれど民衆は、次第に彼らを恐ろしい、ただの暴徒としか見なくなったのです。

天狗党は、京を目指して進軍しました。進軍しながら、商家を襲いました。結果、天狗党は、幕府による追討の軍勢に追われるようになります。そして越前新保(福井県敦賀市)で、説得に応じて素直に投降しました。

大人しく投稿した天狗党に、幕府は厳罰をもって臨みました。352名が死罪、137名を遠島です。たいへんな処罰です。江戸全期を通じて最大規模です。安政の大獄ですら、死罪はわずか8名です。

不思議なことに、これだけ大きな乱であった天狗党の乱について、最近の歴史物語や教科書では、まず触れられることがありません。おかしな話です。

尊王攘夷が、親藩である徳川御三家から出て、その御三家の志士達が江戸期最大の懲罰を受けているのです。これだけの事件について、何も書かれないことの方がおかしく思えます。

この事件をきっかけに、薩長や他の尊王攘夷の志士たちは、幕府の大量処刑を目の当たりにすることで、危機感を募らせ、その後、互いの主義主張の細部を越えて、大同団結を図るようになりました。

そして時代は一気に倒幕へと向かいました。

水戸・天狗党はなぜ生まれ、いかに滅んだのか。江戸時代の思想言論界をリードした水戸藩が、なぜその後、明治政府にひとりの高官も送り出すことができなかったのか。

水戸天狗党の足跡を追ってみたいと思います。


水戸学(みとがく)といえば、ご存知・水戸黄門の水戸光圀(みつくに)が編纂を始めた「大日本史」にはじまる体系的学問で(前期水戸学)、その教科書は、全国の藩校の教科書に採用され、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらしたものです。

水戸学は、もともとは日本史の修史事業です。しかし寛政3(1791)年に、藤田幽谷(ふじたゆうこく)が「正名論」を出してから、単なる歴史研究ではなく「歴史に基づき具体的に行動する」実学としての動きが加速しました(後期水戸学)。

天保8(1837)年には、大阪で陽明学者の大塩平八郎が乱をおこしました。大塩平八郎の主張は、ひとことでいえば、「将軍就任のお祝いするという形式にとらわれ、民の飢えを見過ごすとは何事か!何のためのご政道であるか!」ということです。

この事件を機に、水戸藩第九代藩主・徳川斉昭は、陽明学への傾斜をいっそう深めまています。斉昭は、文理融合・文武両道を強く説きました。内心では大塩平八郎を支持していたのであろうと思われます。

こうした藩公の意向を受けて、水戸藩では藤田幽谷の子、藤田東湖(ふじたとうご)が、日本の建国神話を基に「道徳」を説き、そこから日本固有の秩序を説きました。「尊王攘夷」という言葉は、その著作「弘道館述義」の中で、はじめて出た言葉です。

そして藤田東湖は「尊王攘夷」の言葉のあとに、「神儒一致、文武合併」という言葉を続けています。

 尊王攘夷
 神儒一致
 文武合併

天皇を尊崇したてまつり、神道と儒学(陽明学)を一致させ、文武合併して夷敵を打ち払い、伝統ある日本文化を保持せよ、というのがその趣旨です。

こうした水戸思想界の動きとは裏腹に、黒船に惧れをなした幕府は、安政5(1858)年「日米修好通商条約」を、締結しました。朝廷の意向を無視して、外国と勝手に条約を結んだのです。しかも内容は著しく米国に有利で、日本の国益を損ねました。

朝廷はこれに激怒したといいます。そして水戸藩に孝明天皇の密勅を差し向け、公武合体と攘夷を命じました。これを「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」といいます。

幕府にしてみれば、これはたいへんなことです。天皇が幕府首脳陣を飛び越えて、直接水戸藩に密勅を出したのです。

ウワサを聞いた大老井伊直弼ら幕府首脳は、密勅が倒幕を画策するものであると危惧し、水戸藩に勅書の幕府への引渡しを命じるとともに、「安政の大獄」を行って国内の尊王攘夷派の大弾圧を行いました。

一方、幕府から勅書返還命令をもらった水戸藩は、藩論が真二つに割れてしまいます。穏健派といわれる人たちは、ひたすら幕府に恭順の意を表し、密勅をおとなしく幕府に引き渡そうという。

尊王攘夷派のひとたちは「勅令こそ守るべし!」と唱える。

水戸の学問である水戸学は、尊王です。なによりも天皇のお言葉を大事にする。ですから道理からいえば、尊王攘夷派の言うことが正しいとなります。

けれど現実論として、それを行えば、幕府と対立することになり、藩公にも責任が及ぶのです。「思想」をとるか「現実」をとるか。水戸藩は、まさに板挟みとなったのです。

若侍達は純粋です。ですから「思想」に忠実であろうとします。言を左右にして、ひたすら幕府にのみ気を使う年寄りたちの姿は、奸族(かんぞく)であり、ヒヒ爺いにしかみえない。

現実派の爺様たちにしてみれば、思想よりも藩が大事です。藩あっての言論なのです。そして藩の最大の使命は、藩内の民衆の安寧です。

噛み合ない両者は、激高し、斬り合いになるところまで過熱します。そして結論がでないまま、翌年、朝廷から「やっぱり先の密勅は返してほしい」返納の勅が出されます。

とりあえずは、水戸藩内はほっと一息です。ようやく朝廷へ直接返納することで藩論も統一された。

しかし、もし万一、返納する密書が途中で幕府に奪われたら、これはたいへんです。下手をすれば、水戸藩はおとりつぶしとなる。すくなくとも水戸藩の責任は重く追及され、藩公徳川斉昭は引責となり、藩内の尊王攘夷論者は、最大の庇護者を失うことになります。

これに危機感を募らせた水戸藩士・高橋多一郎らは、覚悟を決め、藩を脱藩し、長岡(現・茨城県東茨城郡茨城町)に集結して、同志・農民など数百人集めました。

そして長岡宿に、「大日本至大至忠楠公招魂表」と書かれた札を立て、道行く人々の荷物検問を実施したのです。江戸への勅書搬入を阻止しようとしたのです。

慌てた水戸藩の重役たちは、安政の大獄の後、謹慎中となっていた前藩主の徳川斉昭に事情を説明し、斉昭から直接「返納の阻止は天意に反する」と、彼らを説得してもらいます。
尊敬する斉昭公からの説得で、高橋多一郎らは、検問所を解散しています。

しかし検問を解散したからとて、尊王攘夷の目的が達成されたわけではありません。すでに横浜などには、多数の外人が上陸し、駐屯しているのです。しかも、高橋多一郎らは、すでに藩を脱藩した身となっています。

彼らは、数日後(安政7(1860)年3月3日)江戸へ出ます。そして薩摩藩士と共謀して、尊王攘夷派の弾圧を行う大老井伊直弼を桜田門で暗殺しました(桜田門外の変)。

さらに竹内百太郎ら水戸を脱藩した浪士37人が、江戸の薩摩藩邸に駆け込み、「我ら、薩摩とともに攘夷の先鋒とならん」という意見書を提出したのです。

ところが薩摩藩は彼らを拘留し、翌年7月まで勾留したあと、彼らを水戸藩邸に引渡してしまいます。

9月になると、水戸藩尊王攘夷派の残党のうち、横浜における外国人襲撃(攘夷)を計画する大津彦五郎らが玉造に集合し、隊伍を組んで近隣から金や兵糧を勝手に徴収しはじめます。

幕府は、関東東北諸藩に命じて騒動に備えるとともに、水戸藩にも攘夷派の解散説得を命じました。水戸藩は、尊王攘夷派の信望が厚い武田耕雲斎を藩政に復職させ、彼らの説得にあたらせました。

日ごろ武田耕雲斎を尊敬していた大津彦五郎らは、素直に解散を承諾します。水戸藩は、彼らを捕縛し、獄につなぐ。そして大津ら一党は、次々と獄死させられてしまうのです。

ちなみに、このとき、一味の中から、上手に捕縛を逃れて逃走した者がいます。それが「下村継次」です。聞いたことのない名前と思われるかと思います。後の新撰組初代組長芹沢鴨です。

藩の教えに従って、純粋な思いから立ちあがった仲間に対して、藩の対応は何だ!武士としての名誉(切腹)も与えず、獄舎内で飢え死にさせる。それが藩の仕打ちか!かくなるうえは、我ら自身の手で、攘夷を実現しなければならぬ。

危機感を強めた水戸の尊攘の志士たちは、文久元(1861)年5月、江戸・東禅寺の英国公使館を襲撃し、館員・警備兵を殺害ししたす。

当然、英国から幕府に対して厳重な抗議が出ます。幕府は、翌月(6月)には、水戸藩に命じ、尊攘派藩士の謹慎を命じる。
水戸藩は、尊攘派の志士たちを問答無用で投獄します。

上級藩士なら格別、下級藩士にとって、投獄はそのまま「死」を意味します。やむなく彼らは次々と脱藩する。そして、文久2(1862)年1月には、江戸城坂下門外で老中安藤信正を襲撃し、負傷させます。

水戸の脱藩浪士たちが幕府の弾圧に危機感を募らせる一方で、文久2(1862)年夏、薩摩藩公・島津久光の政略によって、尊攘派である水戸の一橋慶喜、越前福井藩・松平春嶽が幕政に復帰しました。

そして松平春嶽は、将軍家茂に「京へ上洛し、朝廷にこれまでの失政を陳謝せよ」と奏上したのです。それまでの二度に渡る勅使によって、幕府も勅命実行の確約(条約破棄+攘夷)を避けられないところまで追い詰められていたのです。

将軍上洛に先立っては、将軍の後見職にあたる一橋慶喜が先に入京すると決まりました。

慶喜は、実家の水戸藩に上洛の警護を命じます。ようやく、尊攘派のリーダーが、幕政の表舞台に登場できたのです。水戸藩に残っていた尊攘派の面々は、こぞってこの上洛に志願しました。

文久2(1863)年12月、一橋慶喜が江戸を出立します。そして9日後、水戸藩主徳川慶篤らも家臣団を連れて江戸を出る。

家臣団の中には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、尊王攘夷派の主導者たちがまじりました。彼らは京において、長州藩士桂小五郎、久坂玄瑞、その他京都に集う志士達と交流を重ね、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとして行きます。

藤田東湖は、長州藩と図り、東西で一斉に挙兵して幕府に攘夷を迫ろうと計画しています。

これは時期尚早として武田耕雲斎が諌めて未遂に終わりました。けれど藤田東湖の子の藤田小四郎は、「なぜ父上は折角のチャンスを棒に振るのか!」と聞き入れない。

かくなるうえは、私たちだけででも、攘夷決行を行います!と、ひとり水戸に帰ってしまいます。

そして、藤田小四郎が、元治元(1864)年3月27日に、同志62名とともに、筑波山に登って結成したのが、「天狗党」だったわけです。

ちなみにこのとき藤田小四郎は、まだ23歳です。そこで天狗党総帥に、水戸町奉行・田丸稲之右衛門(たまるいなのえもん)を迎えました。

天狗党は、みんなで力を合わせ、亡くなった水戸藩前藩主の徳川斉昭の神輿を作り、これを軍の中心としました。自分たちは斉昭の素志を継ぐという意思表明です。

そして日光を占拠して諸藩を説き、幕府にも建議して、天皇の意思である攘夷を実行させようと決しました。

そして向かった先が日光だったわけです。けれど彼らの行動は、日光奉行によって阻止されました。やむなく、大平山にこもって四方に激を飛ばす。彼らのもとには、宇都宮藩等から浪士が続々と集結しました。

こうして天狗党は、総勢1400名にのぼる大部隊となったわけです。

冒頭に書きましたように、これだけの熱い仲間が集まった!天狗党首脳部は、「真の尊攘ここに結す!」と狂喜します。

しかし、兵の増加はそのまま兵糧(食)と寝所(住)と金子(銭)の手配の増加を生みます。彼らは軍用金と称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を奪いました。

天狗党内部には、こうした暴挙に異論を唱える者もいました。けれど、血気にはやった襲撃派は、そうした穏健派を「みせしめ」として問答無用の一刀両断に処しました。

これによって天狗党の内部には、強い結束が生まれます。けれど、民衆からは、ただの「暴徒」とみられるようになります。そして「暴徒」に対抗するため、近隣には自衛組織なども作られています。

それだけではありません。便乗者まで出始めたのです。ただの泥棒や、強盗団が、偽の天狗党を名乗って、商家や豪農を襲うという事件が頻発したのです。水戸藩とその近隣は騒然とした混乱状態に陥いってしまう。

この頃、天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎が水戸藩にやってきて、天狗党に入党しています。
清河八郎は、後に芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司らを率いて、新撰組の前身となる浪士組を結成する男です。しかし尊王攘夷の理想に燃える彼は、狂乱ともいえる天狗党の状況に失望し、さっさと大平山を降りてしまっています。

こうして天狗党は、民衆や攘夷の志士、あるいは諸藩の支持を失ないました。思想はともかく、「暴徒行為」に対し、幕府は天狗党追討令を出します。そして常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。水戸藩もこれに応じ、市川三左衛門らに命じて追討軍を編成しています。

元治元(1864)年7月7日、天狗党討伐のための諸藩連合軍は、茨城県下妻市にある多宝院に集結しました。ところがこれを知った天狗党は、その日のうちに多宝院に夜討ちをかけ、諸藩軍を潰走させてしまいます。

なんといっても、文武両道に秀でた尊王攘夷の志士たちなのです。並みの正規軍では敵わない。

敗走した水戸藩士の市川らは、水戸へ逃げ帰ると何を血迷ったか水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火をしたり、家人を斬殺するなどの暴挙に出ます。要するに腹いせ、報復です。

これにはさしもの天狗党の志士たちもまいります。もともと親兄弟を大切にする、理知的な若者たちなのです。身内虐待の情報には、黙っていれない。

天狗党は割れ、約500名が離別します。

残った天狗党は、危機感を募らせ、奸族市川を討つべし!と、水戸城へ攻め込みます。しかし城砦戦には、兵力が足りない。天狗党は、たちまち敗退し、那珂湊の近くまで退却する。

水戸藩の城そのものが、戦乱になったのです。たいへんな問題です。京にいた水戸藩主・徳川慶篤は、幕命を受け、天狗党による内乱鎮静のため宍戸藩主松平頼徳を名代にたてて水戸へ向かいました。

松平頼徳一行が水戸城に到着する。けれど、藩公の一行の中に、武田耕雲斎や榊原新左衛門ら尊攘派がいることを理由に、市川三左衛門は、一行の入城を拒絶してしまうのです。
これまたとんでもない話です。

藩主の命を受けてやってきた者たちを、部下が城に入れないとゴネているのです。

「殿のご命令である。開門をせよ!」と迫るけれど、市川は門を開けない。逆に殺気立った市川らは、抗戦の構えさえ見せたのです。

宍戸藩主松平頼徳らは、やむなく兵を退いて、水戸に近い那珂湊に布陣しました。すると、おもしろいものですね。そこに天狗党の一隊が駆けつけて、藩主頼徳方に加勢すると申し出たのです。

頼徳にしてみれば、そもそもは天狗党鎮圧のために赴いたのです。それに天狗党が味方するというのは変な話です。けれど水戸藩の城を奪われているのです。取り返すには味方が多いに越したことはない。しかも天狗党の一行は、頭もキレ、腕も立つものばかりです。

ついに、松平頼徳は水戸城に立て篭もる市川らと開戦に及びました。しかし、城です。そうやすやすとは落ちない。松平頼徳は、補給と戦闘の休息のため、いったん那珂湊まで兵を引きます。

これをみた市川は、松平頼徳が、天狗党に寝返ったと幕府に讒言したのです。幕府は、びっくりして頼徳討伐軍を組織してしまう。

松平頼徳らが布陣する那珂湊に、今度は幕府から派遣された田沼意尊を将とする部隊が到着します。松平頼徳らが、当然味方の援軍がきたと思って喜んでいると、いつの間にか水戸城から出てきた市川らがそこに合流し、那珂湊を包囲したのです。

「そんなバカな!」
元治元(1864)年10月5日、松平頼徳は、「かくなるうえは、ワシが幕府に真意を伝えてくる」と、ひとり田沼方の幕軍に交渉に赴きました。

しかし、まともに話されたら、あとがなくなる市川は、さっさと松平頼徳を逮捕し、水戸城に連れ帰ります。松平頼徳は、かりにも宍戸藩の藩主です。大名です。にもかかわらず、市川は松平頼徳を切腹させてしまいます。

大将を失った松平勢千人余りは、幕府に投降しました。そして幕府軍の田沼意尊も、ようやく事態の真意を理解しました。けれど、事情を勘違いして味方を敵に、敵を味方にし、さらに大名を切腹にまで追い込んだとあれば、田沼意尊は責任を免れません。

田沼は身の安全のために、強硬手段に打って出ました。投降した頼徳の手勢すべてを全員捕縛し、佐倉藩や古河藩などに預けた後、数ヶ月後に全員、切腹を命じたり、断首したりして全員を殺害してしまったのです。

せっかく松平頼徳軍と合流できたと思って喜んでいた天狗党は、松平頼徳逮捕の報に接し、一時的に大混乱に陥ったのですが、現実に活動してきて、武装を解くことの恐ろしさを知っている天狗党は、松平頼徳軍に同行していた水戸藩尊攘派の重鎮、武田耕雲斎らを連れて、那珂港を脱出し、水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に落ちました。

このとき、天狗党、約千人です。

そして大子村で、あらためて天狗党の総裁として、水戸藩尊攘派の重鎮・武田耕雲斎を仰ぎました。この武田耕雲斎こそ、元銚子市長で日本体操を28年ぶりにオリンピックの金メダルに輝かせた、つくる会の元副会長、岡野俊昭先生の曾祖父です。

天狗党の総裁に就任した武田耕雲斎は「最期の一戦を仕掛け、討ち死にしよう」と主張しました。しかし天狗党の開始からすべてを見てきている藤田小四郎は、これに反対し、「かくなるうえは、京都に上り一橋慶喜殿を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えよう」と生き残る道を提案します。

また、ここでの軍議で武田耕雲斎は、「天狗党は、以前、町に放火するなどして民衆の反感を買ったことを反省し、以後一切の略奪・殺戮を堅く禁じる」と軍規を定めています。

そして天狗党の一行は、11月1日、茨城から京都に向かって出発しました。ルートは、下野、上野、信濃、美濃、中山道を約二ヶ月の行軍です。このときの道中の天狗党は、実に堂々とし、軍律もきちんと守られ、宿代等の支払いもきちんとしたため、街道筋の民衆から、たいへんな好意をもって迎え入れられています。

しかし幕府からみれば、彼らは逆臣でした。
「中仙道・東海道・北国筋にある諸藩は速やかに天狗党を討伐し、全員捕らえよ!」
幕命に従い、元治元(1864)年11月16日には、上州下仁田で、まず高崎藩が天狗党を追撃しました。

激闘の末、高崎藩は、死者36名を出して敗走します(下仁田戦争)。このときの天狗党側死者は、わずか4名です。いかに武田耕雲斎の軍略が優秀であったかがわかります。

徳川270年の太平です。多くの武士たちは、戦いからは縁遠い生活をしています。
それでも、優秀な軍略家を迎えることで、集団は虎の威力を発揮できるのです。

11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠で、高島藩・松本藩連合軍と、昼から夕暮れ時まで交戦しました。天狗党、連合軍とも15名前後の死者を出しました。けれど、ここでも、天狗党が勝利しています(和田嶺合戦)。

あまりの天狗党の強さに、他の諸藩は、天狗党の通行を、こっそりと見逃します。天狗党が間道や裏道を通ってくれさえすれば、藩の面目も立ち、戦闘による被害もなくて済むのです。むしろ軍用金を献納して天狗党を通してくれた藩すらありました。

天狗党一行は中山道を進み、美濃鵜沼宿付近まで到達します。しかしそこには、彦根藩、大垣藩、桑名藩、尾張藩、犬山藩の大軍が陣を敷き、天狗党を待ち受けていたのです。

これは手ごわいです。これら諸藩は戦国以来の強兵を持って鳴る藩です。しかも大軍です。
さしもの天狗党も、これら強藩兵を相手に戦いを挑むのは困難と判断し、中山道を迂回して、北陸道から京を目指そうとします。

しかし時は最早12月、寒気は厳しく、積雪の峠を越えるのは至難を極めます。なかでも北国街道にある大野藩は、天狗党に宿舎や食糧を与えないように民家を全て焼き払い、一種の兵糧攻めのような戦術をとってきました。

天狗党は雪の中で露営せざるを得なくなり、苦しい行軍を余儀なくします。

このとき62歳になっていた天狗党総大将・武田耕雲斎は、次の歌を詠んで、冬将軍に苦しめられている心情を吐露しています。

 雨あられ 
 矢玉のなかは いとはねど
 進みかねたる 駒が嶺の雪

八甲田山のような、死の雪中行軍によって、疲労困ぱいしながら、天狗党は12月11日、ようやく越前新保村まで到達しました。そこには、加賀藩の軍勢が天狗党を待ちうけていたのです。

武田耕雲斎は、天狗党上洛趣旨を加賀藩軍に伝え、進路を開けてくれるよう申し出ました。
ところが、加賀藩からは意外な返事をもらいます。

「我々は、一橋公の命令によって陣を張っている。無理に通るというのならば、一戦もやむなし」

天狗党の上京は、そもそも一橋慶喜公を奉じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることが目的です。すべての鍵は、一橋慶喜なのです。その一橋慶喜公が、自分たちへの討伐隊を編成した?!

兵たちは、雪中行軍で疲労困憊しています。武田耕雲斎は、ここで進退窮まったことを知ります。そして加賀藩に降伏し、武装解除に応じました。

武田耕雲斎は、このとき最後の願いとして、加賀藩の軍監・永原甚七郎に一橋慶喜公へ天狗党一同の陳情書を渡してくれるように頼みました。

抵抗せず、嘆願をしようとする天狗党に、心を打たれた永原ら加賀藩側は、彼らの勤皇の志を知り、同情し、これを承知します。

逮捕された天狗党833名は、三つの寺に預けられました。加賀藩は、命を落して武士道を貫こうとした彼らの姿勢を高く評価し、彼らを丁重に扱いました。

しかし年が明け、天狗党討伐から処分まで幕府から一任された若年寄の田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると、その情況は一変したのです。

彼等を武士としてではなく、天狗党を罪人として扱い、捕縛したのみならず、蝦夷から運ばれてくる肥料用のにしんなどの魚を入れておく蔵に彼らを閉じ込め、厳しく取り調べを行ないました。

そして、罪状を決定すると、斬首350名、遠島137名、追放187名という厳しい処分をなし、さらに津軽海岸で斬首した武田耕雲斎・田丸稲之衛門・藤田小四郎・山国兵部(天狗党の軍師)ら四名の首を、塩漬けにして故郷の水戸に送り、さらし首にしたのです。


天狗党の物語は以上です。
藤田小四郎の辞世の句があります。

 かねてより
 おもひそめにし 真心を
 けふ大君に つげてうれしき

日本を護る。その真心からの行動を、今日わたしは死んで、亡くなられた主君の前藩主・徳川斉昭に報告にまいることをうれしく思います。

もうひとつあります。

 さく梅は 
 風にはかなく ちるとても
 にほひは 君が 袖にうつして

自分の命は果てるとも、その志はきっと誰かが受け継いでくれるに違いない。
私心を捨てた藤田小四郎の、死の直前の心情です。

武田耕雲斎の辞世です。

 討つもはた
 討たれるもはた 哀れなり
 同じ日本の乱れとおもえば

水戸藩は、藩内の尊王攘夷派と穏健派との諍(いさか)いによって、藩論が二分し、互いに殺し合うという状況を招きました。

そして腕が立ち、頭も切れる優秀な人材が、天狗党の乱によって、ことごとく死んでしまいました。このため、明治維新の先駆けとなった水戸藩からは、明治政府の高官は、ほとんど出していません。国が疲弊してしまったのかもしれません。

天狗党の乱は、黒船来航によって、幕府が売国政権となったことに対する純粋な憂国の想いを社会にぶつけた兵乱でした。

昨今では、明治維新は、坂本竜馬の薩長同盟が原点のような印象操作がまかりとおっているけれど、実際には、こうした水戸藩士の純粋な愛国の情と決起が、まず先駆けとしてあったのです。


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日本会議地方議員連盟

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  •  日本会議(会長 三好達元最高裁長官)は、平成9年5月、各界代表や都道府県代表が参加して設立されました。元気で誇りある国づくりをめざして、超党派の国会議員懇談会(会長 平沼赳夫前経済産業大臣)の皆さんとともに全国で国民運動を推進しています。

     このたび、日本会議に所属する全国の地方議員が連携し、地方議会から「誇りある国づくり」を発信するため日本会議地方議員連盟を設立しました。(平成17年3月6日)

     議員連盟では、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹に関わる基本問題に連携してとりくむネットワーク作りを進め、「憲法・教基法」の改正をめざします。

     議員会員(年間1万円)には、会員専用サイトを設け、国会の動き、時局問題に対する見解、全国地方議会の動きなど国民運動情報を提供します。
    皆さんどうぞご入会ください。

    入会はこちらから

     ●日本会議地方議員連盟へのご入会の案内20070112155311.jpg

    ■設立趣意書

     戦後わが国は、日本の弱体化を企図した占領政策の桎梏から抜け出せないまま、外交、防衛、教育、文化などの国の根幹にかかわる基本問題について、多くの病弊を抱えたまま今日に至っている。

     近年、新教育基本法の制定、国民投票法案の成立、さらには防衛賞昇格など、戦後体制を脱却する動きは注目すべきである。しかしながら、その潮流はまだ大きなものとはなっていない。

     この時にあたり、今こそ発言し行動する真正保守の結集が問われている。ここに志しある地方議員は「誇りある国づくり」をめざす日本会議と連携し、地方議会よりその動きを起こし、日本の国柄に基づく新憲法制定へ向け日本会議首都圏地方議員懇談会を設立する。

     全国の良識ある地方議員が我々の趣旨に賛同され、あまたの先人が築いてこられた、この祖国日本を再建するため、我々は、下記の基本方針を掲げて献身することを誓うものである。

        (平成十九年十月六日)

    〈基本方針〉
      
    1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。

    2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。

    3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。

    4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。

    私たちはめざします。
    全国に3000名議員集団を!

    「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組みむ日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。

    ①改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。

    ②青少年の健全育成や、ジェンダーフリー思想から家族の絆を守る運動を推進します。

    ③議会制度を破壊しかねない自治基本条例への反対など保守の良識を地方行政に働きかけます。

    【役員紹介】

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憲法改正を実現する1,000万人ネットワーク 美しい日本の憲法をつくる国民の会

憲法改正早期実現国会議員署名


■  422名  (11月21日現在)




憲法改正早期実現意見書採択可決


■36都府県 /59市区町村議会

■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野

■【神奈川県】横浜市、川崎市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、逗子市、大和市、海老名市、座間市、秦野市、伊勢原市、小田原市、厚木市、愛川町、寒川町、箱根町【東京都】荒川区、小笠原村、日野市、中野区、府中市、町田市、調布市【千葉県】酒々井町【茨城県】常総市【京都府】綾部市【石川県】羽昨市、七尾市、内灘町【富山県】舟橋村、立山町、入善町、滑川市、富山市【大阪府】大阪市、和泉市【奈良県】田原本町【愛媛県】松山市、今治市、四国中央市【福岡県】福岡市、北九州市、川崎町、遠賀町、大川市、篠栗町、芦屋町、行橋市、春日市、糸島市、大木町、柳川市、【佐賀県】鳥栖市、佐賀市【長崎県】佐世保市、大村市、対馬市【熊本県】合志市、多良木町、菊陽町で可決


辺野古移設賛同  地方議員署名


■現在署名数 1812名(231議会)




私たちのめざす 方針と活動



一、新教育基本法に基づいた教育改革と教科書採択を推進する

一、議場への国旗掲揚を推進し、地方から誇りある国づくりを提唱する

一、議会否定につながる自治基本条例を阻止し、議会活動を活性化する

一、ジェンダー思想を相対化する、家族の絆を守る運動を推進する

一、時局問題への対応を敏速に行う

一、研修会、講演会を開催し、会員相互の見識と親睦を深める

一、全国に3千名の地方議員ネットワークを形成する

…………………………………………………………………………

■【人権救済法案問題】
●人権侵害救済法案に反対する意見書案

※人権侵害救済法案の問題点について

…………………………………………………………………………

■【自治基本条例問題】   
議会否定につながる自治基本条例の阻止を

①自治基本条例の問題点について

②外国人に対する住民投票権の付与について

……………………………………………………………………………

■【議場の国旗掲揚推進】
地方議会議場での国旗掲揚について

……………………………………………………………………………

■【外国人参政権問題】
●外国人参政権に反対する意見書採択について

反対決議は362市町村議会(H22年9月1日現在)

慎重議員署名4071名・535議会(同年9月1日現在)

慎重首長署名568自治体(7県知事221市区340町村長・同年9月1日現在)

………………………………………………………………………………

 

尖閣諸島上陸許可要望議員署名


      ↓
■議員署名用紙

現在 4182名
(387議会)

詳細はこちらをクリック

石垣市長・議長連名のお願い文ご活用下さい
      ↓
●石垣市連名の議員署名のお願い文







 
 
 
 

議会否定の自治基本条例