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尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋事件

 浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、文久2(1862)年4月23日、倒幕のための挙兵を計画し、薩摩藩士らが集結した寺田屋に、大山格之助(おおやまかくのすけ。後の綱良)や奈良原喜八郎(ならはらきはちろう。後の繁)といった、いずれも武術に優れた藩士を九名選び、寺田屋に派遣しました。

 久光はその九名の藩士に対し、

「寺田屋の連中が、もし自分の命令に従わない時は、臨機の処置を取れ」

 と厳命したのです。

 臨機の処置とは、命令に刃向った場合、上意討ちにしても構わないということです。

 当時、寺田屋に集結していた有馬新七、柴山愛次郎(しばやまあいじろう)、橋口壮助(はしぐちそうすけ)といった薩摩藩士らと久光の派遣した鎮撫士とは、同じ誠忠組の同志でもあったのです。

 寺田屋に着いた大山達は、有馬達に対し、軽挙な行動は慎むようにとの久光の命令を告げました。
 しかし、有馬は、

「事ここに至ってはもはや中止は出来もはん」

 と、久光の命令を拒否したのです。

 それを聞いた大山ら鎮撫士は、「君命ごわす!」と叫び、有馬らに斬りかかりました。ここに同志相討つ寺田屋の惨劇が起こったのです。

 大山ら鎮撫士は、いずれも剣術に長けた藩士ばかりでしたので、寺田屋にいた人々は次々と斬り倒されていき、まるで生き地獄のような光景となりました。

 特に、有馬新七の最後は壮絶を極めています。

 有馬は鎮撫士の道島五郎兵衛(みちじまごろうびょうえ)を斬りあいに及んだ後、道島を壁へと押し付け、その上に自分が覆いかぶさり、同志であった橋口吉之丞(はしぐちきちのじょう)に対し、

「おい(自分)ごと突け~! おいごと刺せ!!!」

 と、絶叫しました。
 有馬の絶叫を聞いた橋口は、「チェスト~!!!」と気合いをかけ、有馬と道島を同時に刀で突き抜いたのです。
 何と、壮絶なことでしょうか……。想像するだけでも悲惨極まりない光景です。

 結果、寺田屋に集結していた浪士達は、有馬以下六名が死亡、二名が重傷を負い、鎮撫士側は、有馬と共に突き刺された道島のみが死亡しました。

 また、寺田屋に集結していたその他二十数人の薩摩藩士達は、大山らに熱心に説得され、倒幕のための挙兵を諦め、薩摩藩邸に出頭することになりました。

 そして、久光の取ったこの迅速な鎮圧行動に、朝廷は久光に対し、絶大なる信頼感を持ったのです。

 このように同じ薩摩藩内の若者達が斬りあった寺田屋騒動で、久光は朝廷の信頼を得ることになったのは、余りにも悲惨かつ皮肉過ぎる出来事であったと言えましょう。

(沖永良部島遠島)
 久光の逆鱗に触れ、薩摩へと送還された西郷は、その後藩から徳之島への遠島を申し付けられました。
 これが西郷にとって初めての罪としての遠島となります。

 そしてその後、西郷は沖永良部島への遠島替えを命令されることになるのですが、沖永良部島での西郷の遠島生活は、峻烈を極めました。

 西郷は、昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられました。

 沖永良部島と言えば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことがうかがわれます。久光はそれほど西郷のことを憎んでいたのです。

 西郷は、その獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口に含まず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと伝えられています。

 このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、体力も限界へと近づいていったのです。

(生麦事件と天誅の嵐)
 沖永良部島で西郷が過酷な苦難を続ける中、島津久光は朝廷より念願の幕政改革の勅許を得ることに成功し、勅使である公家の大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して、文久2(1862)年6月7日、威風堂々と江戸に入りました。

 勅使の大原は、当時の第14代将軍・徳川家茂に対し、幕政改革の朝旨を伝えました。久光としては初志を貫徹し、さぞや満足のことであったでしょう。

 文久2(1862)年8月21日、目的を果たした久光の行列が江戸から引き上げる際、東海道生麦村(現在の横浜市郊外)において、当時の日本を揺るがす大きな事件が起こりました。

 久光の行列の中を四人のイギリス人が馬で乗り入れ、行列を横切ろうとしたため、薩摩藩士・奈良原幸五郎(ならはらゆきごろう。前名喜八郎)は、「無礼者!」と一喝するや、腰の刀を引き抜き、イギリス人一行に斬りかかり、その内の日本に観光に来ていたチャールス・レイックス・リチャードソンが死亡したのです。

 これが世に言う「生麦事件(なまむぎじけん)」です。

 この生麦事件が、後年の薩英戦争へとつながっていくのですが、それはまた後で述べることとします。

 このように大きな事件を起こしながらも、久光は文久2(1862)年閏8月7日、京に戻ってきました。

 久光としては、幕府に対する幕政改革の要求に成功し、朝廷の覚えも目出度く、その首尾は上々であったのですが、京における久光の評判は余り良いものではありませんでした。

天皇を含む上流公家達の間では久光の評判は高いものでしたが、下級公家や一般のいわゆる志士や浪士、他藩の下級藩士らには、評判が良くなかったのです。

 それには大きな理由があります。

 長州藩の長井雅楽という人物が「航海遠略策」という論策を持って国政に乗り出したことは前述しましたが、この論策は久光が上京したことにより、評判がガタ落ちとなりました。

これは長井の策が「幕主朝従」といった形での幕府主導型の公武合体策であったことと(実際はそうでもないのですが)、久光が上京を機に、因循な公武合体策ではなく倒幕に踏み切るものと、一般の志士らには期待されていたからです。

 久光が上洛した際、倒幕が成ると考えた人々は多くいたのですが、久光が京に入ってまずしたこととは、寺田屋での倒幕派の鎮圧という、一般には理解しがたい行動でした。

その後の久光の動きを見ても、長井の行動と特段の変わりを見せなかったため、久光の評判は上がるどころか、逆にどんどん下がっていったのです。

 また、長井雅楽はその後どうなったのかと言うと、長井は藩のために努力したにも係わらず、航海遠略策のために切腹を命じられるという不合理なことまで起こりました。

長州藩内の松下村塾メンバーを中心とする下級藩士らが、長井の排撃運動を目論み、久光の上京により評判の落ちた航海遠略策の責任を追及し、彼を切腹にまで追い込んだのです。

 最後には、長州藩政府は、航海遠略策は長井が勝手に主唱したものであって、藩は一切無関係であったとまで極論しました。

 長井という人物は、余りにも悲劇的な人だと感じられてなりません。

 長州藩は長井の航海遠略策を引っ込めた後、藩論を急展開させ、最も過激な尊王攘夷論を藩論と定めました。
 尊皇攘夷とは、読んで字の如く「王(天皇)を尊び、夷狄(いてき。外国)を攘う(はらう。撃退する)」という過激なものです。

 長州藩の急進派藩士達は、下級公家を中心に過激な尊皇攘夷論を吹聴し、これが大きな勢いを持ち始めました。このような大きな情勢の変化により、久光の主唱する公武合体論は、京において、またもや古い産物となりました。

わざわざ薩摩から京に出てきて、公武合体論を展開した久光としては、そんな長州藩の動きに対し、歯噛みする悔しい思いだったに違いありません。

 しかしながら、久光としてはこのまま京に留まり、もう一度この政治情勢を変えることが出来ませんでした。

 生麦事件の報復と称し、イギリス艦隊が薩摩を砲撃するという噂が流れたためです。

 久光としては、イギリスの報復行動に対する準備を整えるため、帰国せざるを得なくなり、久光が薩摩に向けて帰国した後、京の町にはテロリズムの嵐が吹き起こりました。

 安政の大獄に幕府の手先として働いた者や、開国論を唱える者、はたまた攘夷実行に邪魔になる者全てが暗殺という手段により殺されていったのです。

 まさにこの時期は幕末という時代の中でも、最も凄惨で暗黒の時期であったと言えるでしょう。

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薩英戦争本陣跡(写真)
薩英戦争本陣・千眼寺跡(鹿児島市)
(薩英戦争と八月十八日の政変)

 文久3(1863)年7月2日、横浜から海路鹿児島の錦江湾に集結したイギリス艦隊七隻と薩摩藩との間で激しい砲撃戦が繰り広げられました。

 世に言う「薩英戦争(さつえいせんそう)」です。

 イギリス側は前年に起こった生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金の請求を薩摩藩に要求したのですが、薩摩側はこれを拒否したため、戦端が開かれました。

 アームストロング砲を備えたイギリスの最新軍艦に対し、薩摩藩は旧武装ながらも勇猛果敢に戦いました。結果、薩摩側の戦死者が五名であるのに対し、イギリス側の戦死者は十三名にものぼり、イギリス側は旗艦・ユーリアラス号のジョスリング艦長までも戦死するという損害を受けました。

 しかしながら、イギリス艦隊の砲火により、城下町をことごとく焼かれた薩摩藩も、こ薩英戦争で外国の強大な力を思い知り、藩論を大きく展開することになりました。イギリスから軍艦や武器の購入を行ない、また留学生を派遣し、紡績機械を輸入するなど、薩摩藩は親イギリス政策を取り、両者の間柄は急激に親しいものとなっていったのです。

 薩摩藩がイギリスと激しい砲撃戦を経験した時期、遠い京の地では、長州藩の勢いは益々盛んとなっていました。
 長州藩の藩論が航海遠略策から最も過激な尊王攘夷論に変化したことは前述しましたが、長州藩の急進派と呼ばれる藩士らは、盛んに公家達に尊王攘夷論を吹聴し、京における長州藩の台頭は著しいものがありました。

 また、勢いを得た長州急進派の藩士らは、文久3(1863)年3月に加茂神社、4月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させるなど、自らの思うがまま朝廷を操るような状況が続いていたのです。

 このような長州藩の暴走を当時苦々しく見つめていた二つの藩がありました。
 一つは、当時京都守護職の要職にあった松平容保(まつだいらかたもり)を藩主とする会津藩です。
 会津藩主・松平容保は、前年文久2(1862)年閏8月、幕府より「京都守護職」を拝命し、12月に藩兵約千人を引き連れて京の都に入りました。
 しかし、その頃の京都は天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れており、その様子を間近で見た松平容保は大いに憤りもしたでしょうが、テロを続ける長州や土佐の過激派集団の背後には、これまた過激論を息巻く急進派公家がいたため、容保としてもなかなか容易には手が付けられない状況であったのです。

 京都守護職として赴任しながらも、長州藩の横暴を食い止めることが出来ないことに、容保としては歯噛みするような思いで毎日を過ごしていました。
 そしてもう一つの藩は薩摩藩です。

 前述しましたが、島津久光は国政のイニシアチブを握るべく、遠い薩摩からわざわざ兵を率いて京都に入り、江戸にも下向して幕府に対して幕政改革を迫ることに成功していたのですが、京に帰ってみると、長州藩の尊皇攘夷論の勢いが盛んになっていました。

 この原因については以前簡単に述べましたが、ともかく久光としては、折角の努力が長州藩のために水泡に帰したわけですから、久光の中に長州藩憎しという感情が芽生えたのは当然のことだったと言えるでしょう。

 結果、会津藩と薩摩藩はお互いの利害関係が一致し、お互いに接近し合い、手を握るという前代未聞の出来事が起こったのです。

 文久3(1863)年8月18日未明、薩摩・会津の兵が俄かに動き出し、武装して御所の門を固めました。
 公武合体論者であった公家の中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)は急遽御所に参内し、天皇から急進派公卿の三条実美ら七名の国事掛免職の勅許を得ました。

 それと同時に長州藩は、受け持っていた御所の堺町御門の守衛を免じられ、三条実美ら七人の公卿と長州藩士らは、京から勢力を一掃され、落ちざるを得なくなったのです。

 この会津と薩摩の長州藩追い落としクーデターを「八月十八日の政変」といいます。
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■憲法改正の早期実現を求める国会議員署名について

賛同国会議員441名(10月18日現在)

■憲法改正の早期実現を求める意見書採択について

地方議会にて36都府県 /59市区町村

■石川、熊本、愛媛、千葉、香川、富山、兵庫、鹿児島、群馬、栃木、岡山、大分、宮城、山形、高知、佐賀、埼玉、山口、長崎、宮崎、和歌山、岐阜、神奈川、大阪、福井、京都、茨城、東京、徳島、静岡、新潟、秋田、山梨、福岡、滋賀、長野

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コメント

2つの寺田屋事件

坂本龍馬のやつと2つの寺田屋事件がありますね。

陛下の退位を巡る有識者会議

「長州ファイブこそは、攘夷思想の裏切り者ではないですか。」
http://youtu.be/GJSPc8hE4Vs?t=4m51s


----
毎日新聞‏ @mainichi
2017 5/21
「天皇は祈っているだけでよい」──。
陛下の退位を巡る有識者会議で、ヒアリングの際に保守系専門家からこんな意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」と強い不満を漏らされていたことが分かりました。

ベルリン地下鉄 aその1 地下鉄3号線

里美です。

【Die U-Bahn Berlin (= Die Untergrundbahn Berlin) = Die Berliner U-Bahn (= Die Berliner Untergrundbahn)】

ベルリン地下鉄[Die U-Bahn Berlin = Die Berliner U-Bahn] aその1 地下鉄3号線[Die Linie U3]

U-Bahn Berlin - U3
[Die Linie U3 der Berliner U-Bahn verlaeuft zwischen dem U-Bahnhof Nollendorfplatz und dem U-Bahnhof Krumme Lanke.
Diese YouTube-Bewegungsvideoaufnahme behandelt den U-Bahnhof Oskar-Helene-Heim, den U-Bahnhof Freie Universitaet (Thielplatz), den U-Bahnhof Breitenbachplatz und den U-Bahnhof Wittenbergplatz.]
https://www.youtube.com/watch?v=KM4Zr2Zl4xI

【注】
1. 毎日毎日お仕事お疲れ様です。お昼の一時、休憩時間の一時、週末の一時、祝日の一時、祭日の一時などにどうぞ。
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  • Author:日本会議地方議員連盟
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……………………………………………………………………………

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