1審・東京地裁と2審の判決などによると、女性教諭は平成11年4月、入学式で校長から「君が代」のピアノ伴奏を指示されたが拒否。東京都教育委員会は同年6月、地方公務員法違反(職務命令違反、信用失墜行為)に該当するとして戒告処分とした。
那須裁判長は判決理由で、女性が「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結びついているとの思想を持っていることに絡み、「ピアノ伴奏を拒否することは女性にとっては歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には不可分に結びつくものということはできない」と指摘。ピアノ伴奏の職務命令について「特定の思想を持つことを強制したり、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制したりするものではない」と判示した。
さらに「入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは、学習指導要領などの趣旨にかなうものであり、本件職務命令はその目的および内容において不合理であるとはいえない」とした。
判決は5人の裁判官のうち、4人の裁判官一致の意見。藤田宙靖裁判官は「『思想および良心』とは正確にどのような内容であるかについてさらに詳細な検討を加える必要がある」との反対意見を付けた。(産経新聞引用終わり)
当然の判決だ。
先の東京地裁の違憲判決を理由に日教組、全教は今春の卒業式、入学式の国旗国歌の伴奏や起立を拒否する運動を推進してきたが、今回の判決は彼らの論理の裏づけをなくしたものといえる。
今後、こうした態度には明確に処分をもって対応することが必要である。
また、新教育基本法の審議において、安倍総理や小坂文部科学大臣が以下のような答弁を行っています。
学校のそうしたセレモニーを通じて自国の国旗・国歌に対する敬意、尊重の気持ちを育てる、涵養するということは極めて私は重要であろうと思うわけでありますし、また、例えば国歌の歌詞についても、そこで子供たちが自分たちの国歌の歌詞について学ぶ機会が失われることになってはならない(安倍総理大臣、参議院教育基本法特別委、11月22日)
一番最初に、まずこれから国旗・国歌について話すけれども、君たちには内心の自由があるから歌っても歌わなくてもいいんだよ、それを言ってから歌詞を教えるとか何かをしても、なかなか覚えるような下地はできてこないと思いますから、そういう前提を設けないで、まずは、日本の国には国旗があり、国歌があるということを客観的に教え、そして、歌うか歌わないかは、最終的に、それは確かに、生徒がその場に応じた状況で判断をする場合もあるかもしれません。
しかし、それをまず教師という指導的立場にある人が、内心の自由があるから歌を歌わなくてもいいんだよなどという言い方は、やはりこれは逆の指導をしているというふうにとらえられてもやむを得ない。(小坂文科大臣、6月8日 衆院特別委)
日教組や全教は、「内心の自由」を持ち出して「歌わなくてもいい自由がある」と嘯きますが、この問題について憲法の専門家である百地章教授が「正論」に素晴らしい原稿を寄せていますので、転送します。是非とも、この論文を、関係者に読ませるようにしていただければ幸いです。
(引用)
【正論】日本大学教授・百地章 国旗・国歌問題への誤解を正す
■「思想・良心の自由」の意味から考察
≪疑問の多い地裁判決≫
今年も卒業のシーズンが近付いてきた。卒業式といえば、これまで年中行事のように繰り返されてきたのが、日教組や高教組などによる妨害活動であったが、平成11年の国旗国歌法制定以来、国旗掲揚、国歌斉唱をめぐる混乱は全国的に収束に向かっていた。ところが昨年9月、東京地裁が国旗掲揚に際しての起立や国歌斉唱の強制は憲法違反であるとする判決を下したため、日教組などは再び勢いづいていると聞く。
判決は、教職員に対して起立や国歌斉唱等の義務を定めた東京都教育長の「通達」は、国旗に向かっての起立や、国歌斉唱をしたくないという思想、良心を持つ教職員に対してこれらの「行為」を無理やり命ずるものであって、「思想・良心の自由」の侵害に当たるとしているが、これは疑問である。
「思想・良心の自由」とは、通説によれば宗教上の信仰に準ずるような世界観、人生観、主義、主張など人格の形成にかかわる内面的な精神作用が、公権力によって侵害されないことをいう。
つまり憲法が保障する「思想・良心の自由」とは、具体的には(1)特定の思想・信条等が、公権力によって強制されてはならないこと(2)思想・信条等を理由として、差別や不利益的な取り扱いがなされてはならないこと(3)思想・信条を強制的に表明させられないこと(沈黙の自由)−を指す。
≪自由の侵害と制約は別≫
ここから言えることは、第1に「思想・良心」とは「内心作用」のすべてを指すわけではなく、単なる不快感などはこれに含まれないということである。
第2に、法令や適正な職務命令に基づいて一定の「行為」を命ずることと「思想・良心の侵害」とは別だということである。例えば、校長が教職員に国歌斉唱を命じたとしても、それはあくまで「外部的行為」を命ずるだけであって、思想・信条は問題にしていないから、思想、良心の自由の侵害とはならない。
教職員が内心においてどのような思想・信条を抱いていようとも、それは自由だからである。このことは、福岡地裁判決(平成17年4月26日)も認めている。
第3に、思想、良心の自由の「侵害」と「制約」とは別であって、憲法が禁止しているのは「侵害」である。つまり、思想・良心は、それがいかに反倫理的、反国家的のものであったとしても、内心にとどまる限りは絶対的に保障される。
しかし、それが外部的な行為となって現れる場合には、他の権利や自由と同様「内在的制約」や「公共の福祉による制約」を受ける。
それゆえ、法律が国民に対して一定の義務を課している場合には、たとえそれが自らの思想・信条と異なるものであったとしても、国民はそれに従わざるをえない。例えば、納税など不要であるとの思想の持ち主がいたとしても、当然納税の義務を果たさなければならない。逆に、もし国民一般に課せられた法的義務を、思想、良心の自由を理由に拒否することを認めたら、国家秩序は崩壊する。
≪「心の教育」をめぐって≫
このように「思想・良心の自由」といえども、決して絶対的なものではない。ところが「思想・良心の自由」が持ち出されると、たちまち腫れ物に触るようになる。
例えば国旗・国歌や愛国心の問題になるとすぐに「思想・良心の自由」の侵害にならないかなどといった話に発展してしまうわけである。これは「内心に触れる」ことと、「思想・良心の自由の侵害」とは別問題であることが、正しく理解されていないことによる。
「心の教育」ということがいわれるが、教育とは本来、精神的な営みであって、子供たちの心の襞(ひだ)や琴線にふれ、子供たちに感動を与えることこそ、真の教育といえよう。
例えば、中学校学習指導要領の道徳教育では「父母、祖父母に敬愛の念を深め」るよう教えることになっているが、これらの徳目を子供たちに教え、身に付けさせようとすれば、当然、子供たちの内心に触れていかなければならない。
しかし、そのことと「思想・良心の自由」の侵害とは全く別問題である。
今回の教育基本法改正によって、新たに「国を愛する態度を養う」ことが、教育の目標として定められ(第2条)、国会では、安倍総理らに
よって「心」と「態度」は一体のものであり、「国を愛する態度」を養うためには、「国を愛する心」をしっかり教えることが必要であるとの答弁が繰り返されている。それゆえ今年こそ、全国で厳粛な卒業式が挙行され、国旗掲揚、国歌斉唱が整然と行われることを心から期待している。
(ももち あきら)(産経新聞2007/02/18 05:02)
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