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1922年 - ハワード・カーターがツタンカーメン王の墓の入口を発見。

1922年 - ハワード・カーターがツタンカーメン王の墓の入口を発見。

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ツタンカーメン王墓の発掘ー三千数百年の時を超え、今よみがえる壮大なロマン!

無題
ふ無題

1)ツタンカーメン王墓発掘の物語ほど人を興奮させるものはないし、考古学上の発掘で、これほど華麗なものはないだろう。王家の谷から、ほとんど完全に保存された地下の墓が、約二〇〇〇点の宝物とともに発見された
からである。

 エジプト学は1798年の、ナポレオンのエジプト遠征に始まったといえる。ナポレオンはこの遠征のとき、175人の学者・芸術家を連れて行った。これらの人たちの調査は「エジプト誌」となつて実つた。

この遠征 中に、古代エジプト文学解読のカギを与える「ロゼッタ石」が発見され、1822年、フランスの学者フランソワ・シャンポリオンは、古代エジプト文学の解読に成功した。そこで、学者と芸術家と観光客がエジプトへ殺到した。(黄金のマスク)

2)1822年、フランスの学者フランソワ・シャンポリオンが古代エジプト文学の解読に成功した後、投機的な目的をもった商人達もエジプトへ殺到した。商人達は、自ら盗掘に加わったり、盗掘品の買いあさりなどをした。

その代表的な人物は、イタリア人のジョバンニ・バチスタ・ベルツオニである。彼は歴史にも芸術にもセンスをもたず、ただ古代建造物を破壊して中味を持ち出し、ヨーロッパで売りさばくことのみに関心をもっていた。

 このような乱れた情勢に秩序を与えたのはフランスの学者オーギュスト・マリエットであった。1850年にエジプトへ調査に来た彼は、エジプト政府に対して管理の必要を進言した。

1858年エジプト政府は遺物局をつくりマリエットをエジプト博物館の局長に任命した。マリエットは掘・乱掘、国外持ち出しを禁ずる規定をつくり、出土品収納のための小さな博物館をカイロ郊外の地プーラクにつくった。これが今日のカイロ・エジプト博物館の前身となった。

3)1880年、マリエツトは引退し、同じフランスの学者ガストン・マスペロが後任に任命された。ツタンカーメン発掘物語主人公ハワード・カーターが考古学者として訓練され、評価されるのは、このマスペロによってである。

ツタンカーメンの名と離しては考えられないハワード・カーター。彼は1873年イギリスで、九人兄弟の末っ子として生まれた。父は有能な動物専門の画家であり、アマースト卿を後援者としていた。

無題
ハワード・カーター

ハワードが絵の才能を見せ始めたとき、アマーストは自分友人である考古学者ニューベリー教授に紹介した。教授はエジプトから持ち帰った古い絵を模写する仕事を少年画家に与えた。カーターとエジプトの結びつきはこの時に生まれた。

 教授はカーターの絵の才能を高く評価し、1890年18才のカーターを連れてエジプトへ調査に出かけた。カーターは8年間調査と発掘に加わった。遺物局長マスペロの指導も受けた。

カーターは豊かなエジプト学の知識を身につけた。カーターの考古学者としての能力にマスペロは注目した。1899年、彼は26才のカーターをエジプト・ヌビア地方記念建造物主席監督官に任命した。(写真はカーター)

4)1902年、アメリカの考古学者セオドア・デービスは、エジプト政府から王家の谷の発掘許可を受けた。エジプト政府遺物局が監督するという条件が付いていた。遺物局の出先機関であるカーターは、その監督に当たることとなった。

カーターは監督だけでなく、自分で発掘に参加した。デービスの重要な発掘として、王トトメス4世、王女ハトシェプスート、神官ユヤ、その妻チユヤの墓をあげることができる。ユヤとチュヤは、ツタンカーメン王妃の祖父母に当たる人物である。

 しかし、今日の我々としては、これらの重要な発掘よりも、彼自身の評価しない彼の発掘品の方に、デービスの価値を認めたくなるのである。なぜならば、彼がつまらない、といって省みなかったものによってカーターがツタンカーメン王墓の存在を確信し、ついにそれを発見することになるからである。

デービスはといえば、1912年に彼は10年間の発掘結果をまとめて報告書を発表した。この中で彼は「谷は掘りつくされた」と断定した。その後、発掘許可期限の1914年のはじめまで補足的な発掘を続けたが収穫はなかった。それは「谷は掘りつくされた」とする断定を、さらに補強するように見えた。(王家の谷)

5)「谷」と略称される「王家の谷」とは、なんであろうか。カイロからナイル川を725キロさかのぼった所に、古代エジプトの町テーベがある。それは、第11王朝から第21王朝までの約1000年間、古代エジプトの首都であった。川の西側には、山に囲まれた谷があり、ここに多くの王が墓をつくった。

これが「王家の谷」である。王の墓は常に財宝をふくんでいた。だから、ここは古くから「発振者」の宝庫であった。ここで「発掘者」というのは学問的な発掘者のみを指さない。なぜなら、最も古い「発掘者」は現地の墓盗人であったからだ。建造物がどんなに堅固に、どんなに秘密に作られても、そこを襲って破る墓盗人がいた。

古代エジプトの時代に、そのような盗掘があったことは古代の記録そのものに記されている。近代では「クルナの盗賊村」という例がある。村全体が盗掘の専門家であり、発掘品をヨ一口ッパ人に売りさばいていたのである。

 次の「発掘者」は、投機または冒険で建造物を破壊する外国人である。先に書いたイタリア人、ベルツォニの乱掘はこの代表である。彼は狂ったように墓荒らしを続け、エジプトからイギリスへ引き揚げた時「もう谷は掘りつくされた」と公言してはばからなかった。

ちなみに、ベルツォニはその後、酉アフリカの古代の都、黄金の都として伝説の残るトンプクツーの探検に出かけ、その旅行中に死んだ。

6)古代エジプト時代、多くの王が墓を作った。それが「王家の谷」である。そして、ここは古くから「発掘者」の宝庫でもあった。「墓盗人」「盗掘者」などは論外として、学問的発掘の偉大な先覚者としてドイツの考古学者カルル・リヒアルト・レプシウス(1813-1884)を忘れてはならない。

彼は、1844年、大調査団を組織して王家の谷を調べ、ラムセス二世の墓、メレンプタハの墓などを発見した。ついで、1898年にはフランスの.学者ビクトル・ロレ(1859-1946)がトトメス一世の墓、アメンホテプ二世の墓などを発見した。

そして、デービスの発掘、すでに発見された墓は60に達していた。デービスは自信たっぷり に「谷は掘りつくされた」といったのである。ほとんどの学者は、このデービスの意見にくみした。

 しかし、谷は掘りつくされていない、と判断したのがカーターであった。3千3百年前の、第18王朝のツタンカーメンの墓が残っているはずだ、と考えたのである。

なぜか?先に我々はデービスの評価しない発掘品とカーターの関係について少し触れたが、それをもっと詳しく見ることにしよう。

 1909年、デービスは岩の近くの穴で聖刻文字のついている壷を見つけた。一見したところ中味は壊れた陶器の破片、リンネル(織物)、その他ガラクタにすぎないように見えた。

カーターは綿密に調査しようとしたが、デービスはこれを拒み発掘品倉庫に無造作に放り込んだ。これに注目したのは「王家の谷」へ調査に来ていたニューヨーク・メトロポリタン博物館のH・Eウインロックであった。デービスの許しを得た彼は、この壷の内容品をニューヨークに持ち帰り詳しく検査した。

その中味は、ツタンカーメンの名を刻んだ粘土印であり、リンネルはツタンカーメン在位年を記したショールであった。これらはツタンカーメン埋葬の際に使われ、その後でまとめて壷に納められ捨てられた物に違いないとカーターは判断したが、デービスは問題にしなかった。(ツタンカーメン王墓の入り口)

7)1912年、デービスは岩の下からツタンカーメンの名を刻んだ盃を掘り出した時も、別の小さな縦穴からツタンカーメンの名が読みとれる金の薄片を拾い出したときも、これを重視しなかった。

「この品の出た穴がツタンカーメンの墓なんだよ、他に探したってありはしないよ」と彼はいった。しかし、カーターは同意しなかった。こんな貧弱な穴が王の墓なんかであるはずがない。とカーターは考えた。

デービスが見つけた3つの材料は谷のどこかにツタンカーメンの墓があることを証明するのではないか、とカーターは考えた。カーターの理論は精密なのであるが、その理論の細部に立ち入る余裕を、今我々は持たない。

我々はただ、デービスが発掘し、デービスが無視した遺物が、カーターの大発見のスタートになったことを知ればよいのである。

 カーターはそのころ、出資者カーナーボン伯爵の協力者になっていた。1907年からであった。監督官としてデービスの当初の発掘に関係した後、カーターはマスペロ遺物局長の推薦で監督官の職を去り、カーナーボンの協力者つまり発掘指揮者になったのである。「王家の谷」の主要部はデービスが発掘挙を持っていた。

8)「王家の谷」の主要部はデービスが発掘許可を持っていた。したがってカーナーボン出資によるカーターの発掘は、ナイル川よりの特別の許可を必要としない副次的な区域で進められた。それは五年間続いた。

1912年、カーナーボンは、これについて「五年間の成果」と題する書物を出版した。成果には、注目すべき一枚の碑板をふくんでいた。それは「カーナーボンタブレット」と名付けられている。

この1912年は、カーターがツタンカーメン王墓発見への意欲を燃やし始めたときである。デービスが発掘許可を返上したとき、それを引き取ってツタンカーメン王墓を発見しようとカーターは考えていた。

カーナーボンはカーターを信頼していた。カーターの執念、カーナーボンの寛大さ、この二つの見事な組み合わせが、ついに大事業を達成させることになるのである。

ツタンカーメンの呪い



1922年11月4日、ハワード・カーター率いる考古学調査隊は、のちに20世紀最高の発見と称賛される偉業を成し遂げた。エジプトの「王家の谷」で古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメンの墓の入口を発見したのである。

ツタンカーメンの黄金のマスク

ところが、その華々しい発見と引き換えに謎の怪死事件が続出することになる。
有名な「ツタンカーメンの呪い」である。その前兆は墓の入口が発見された1922年11月4日に起きていた。

カーターが飼っていたカナリアがコブラに食べられてしまったのだ。カナリアはエジプトで幸運の鳥とされていた。その幸運の鳥がツタンカーメンの墓を発見した直後に死んでしまうとは、なんという不吉な出来事だろうか。

さらに不吉な前兆は続く。封印されていたツタンカーメンの墓の入口には、「偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」と死を警告する碑文が刻まれてあったのだ。

この碑文の内容は現実のものとなる。調査隊のスポンサーでもあり、墓の開封にも立ち会ったカーナヴォン卿が発掘の翌年4月に原因不明の高熱で急死。同じ時、カイロ中の電気が停電した。

犠牲者はこれに留まらない。カーナヴォン卿の死の直後には墓の開封に立ち会った考古学者のアーサー・メイスも急死。同じく開封に立ち会ったアラン・ガーディナー、ジェイムズ・ブレステッド、ハーバート・ウィンロック、アーサー・キャレンダー、リチャード・ベセルも相次いで死亡。

さらにはツタンカーメンのミイラの検査を行なったダグラス・デリーが肺虚脱で亡くなり、同じく検査を行なったアルフレッド・ルーカスも同時期に急死した。

結局、犠牲者はこの後も続き、1930年までにツタンカーメンの墓の発掘に関わった22人が死亡。1930年まで生き残ったのはわずかに一人だけであった。
やはり碑文に刻まれていた呪いは事実だったのである。

この「ツタンカーメンの呪い」は、ツタンカーメンの墓の発掘話のときによく出てくる有名な話だ。しかし、この有名な話とは裏腹に、その真相を調べてみると、実はデタラメと誇張のオンパレードだということがわかる。

そもそも最初の不吉な前兆とされたカナリアの出来事は、発掘当日ではなく、1ヶ月以上後の12月中旬に起きたことだった。さらに入口にあったとされる呪いの碑文の方は完全なデッチ上げである。そのような碑文の存在は確認されていない。

では呪いの犠牲者とされた人たちはどうだろうか。カーナヴォン卿の死については、発掘後、数ヶ月で亡くなったのは事実であるものの死因は不明ではなかった。
髭を剃っていた時に誤って蚊に刺された跡を傷つけ、そこから熱病に感染し、肺炎を併発したことが死因だったのである。

もともと彼は発掘のずっと以前の1901年にドイツで遭遇した自動車事故が原因で健康状態は良くなかった。さらに医師の助言を無視することもしばしばで、彼が57歳という当時では高齢といえる年齢で亡くなったこと自体に不思議はない。

また彼の死と同じ頃、カイロで停電が起きた件は、当時の電力事情が非常に不安定で、日頃から頻繁に停電が起きていたことを知っていれば驚くにはあたらない。



その他に呪いを受けたとされた人たち

さて、カーナヴォン卿以外にツタンカーメンの呪いを受けたとされた人たちはどうだろうか。まず「発掘に関わった者のうち、1930年まで生き残ったのはわずかに1人だけだった」という伝説は、まったくのデタラメである。

そもそも、最初にツタンカーメンの墓の前室に入り、まっさきに呪いの犠牲者となってもおかしくない4人(ハワード・カーター、カーナヴォン卿、アーサー・キャレンダー、イヴリン・ハーバート)のうち、1930年までに亡くなったのはカーナヴォン卿だけである。

カーターは1939年の65歳まで生き、キャレンダーも同じく1939年まで60歳を越えて生きていた。さらにカーナヴォン卿の娘イヴリン・ハーバートに至っては、亡くなったのが1980年、死亡時の年齢は78歳だった。

また墓の開封に立ち会った他の人たちも死亡時期が捏造されている場合が多い。たとえばアラン・ガーディナーが亡くなったのは実際には1963年(84歳)、ブレステッドは1935年(70歳)、ウィンロックは1950年(66歳)である。

ミイラの検査をしたダグラス・デリーも1969年(87歳)まで生きていて、同じ時期に亡くなったとされるアルフレッド・ルーカスが実際に亡くなったのは1945年(78歳)だった。他にもカーナヴォン卿の死の直後には、墓の開封に立ち会ったアーサー・メイスも急死したとされるが、実際に彼が亡くなったのは1928年、カーナヴォン卿の死からは5年も後のことである。


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