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6千人のユダヤ人を救った杉原ビザは、諜報外交官としての手腕と国益への志から生まれた

人物探訪:諜報外交官・杉原千畝

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6千人のユダヤ人を救った杉原ビザは、諜報外交官としての手腕と国益への志から生まれた。

■1.「杉原がいたから私たち一家がいるのです」

 先の大戦前、バルト三国の一つ、リトアニアの領事代理となり、ソ連のポーランド侵略から逃れてきたユダヤ人難民約6千名に日本通過ビザを発給して命を救った杉原千畝(ちうね)の功績が国際的に知られつつある。

 シカゴ近郊で、ユダヤ人受難の記録を展示するイリノイ・ホロコースト博物館の教育委員長リチャード・サロモン氏が史料の借り出しのために来日したさい、杉原のビザ発給リストを見つめていた様子を、[1]の著者・白石仁章氏はこう伝えている。

「この名前は私の父です。これは叔父、これは従兄弟(いとこ)」と説明し、しばし絶句しつつ、涙を浮かべながら、しみじみと「杉原がいたから私たち一家がいるのです」と語ったことは、特に印象的であった。サロモン氏は両親がアメリカ到着後に生まれたそうだが、この世に生を享けたのも、杉原のヴィザ発給ゆえに他ならない。[1,p163]



 杉原千畝については弊誌でもすでに3度紹介しているが{a,b,c]、近年、研究が進んで、杉原が類い希なインテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)であった事が判ってきた。ユダヤ人救出も、彼の人間愛のみならず、諜報外交官としての手腕と志から生み出されたものであった。


■2.「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」

 約6千人のユダヤ人にビザを発給して救った杉原ではあったが、皮肉にも、彼自身のビザ発給を拒否された事がある。昭和11(1936)年暮れ、杉原はロシア語の二等通訳官として在ソ連日本大使館に勤務するよう命ぜられ、在日ソ連大使館にビザを申請したが、翌年2月に入っても発給されなかった。

 外務省が督促すると、ソ連側は「関係省庁が反対するので、ビザの発給を見合わせることとした」と電話で通告してきた。外交用語での「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」の扱いだが、大使・公使ならともかく、通訳官のような一般館員へのビザ発給拒否は「国際慣例上先例なきこと」として、外務省は激しく抗議した。

 その後、重光葵(まもる)駐ソ大使まで乗り出したが、ソ連側は態度を変えず、しかも「杉原だからダメだ」というのみで、理由も明かさない。ついには互いへのビザ発給拒否の報復合戦にまで発展したが、杉原のソ連入国はついに諦めざるを得なかった。

 ソ連が杉原を恐れたのは、彼の諜報活動で煮え湯を飲まされた経験があったからだ。1933年にソ連から北満(北部満洲)鉄道を売却するという提案がなされ、満洲国代表として当時、同国外交部に派遣されていた杉原が交渉にあたった。ソ連側の要求6億5千万円に対し、満洲国側の提示額はわずかに5千万円だった。

 杉原はソ連側の金額の根拠について疑義を示した。満州国内で鉄道網整備が進み北満鉄道の経済価値が下がっている事から、鉄道施設が老朽化していることまで明らかにした。「ソ連がどれだけの貨車を持ち出したとか、北満鉄道の内部のあらゆることを自分の諜報網を使って調べ上げてしまった」と、杉原と親交のあった友人は証言している。

 ソ連側はやむなく提示価格を2億円と一挙に3分の1以下に引き下げ、満洲国側も歩み寄って、1億4千万円で妥結した。ソ連側のハッタリを諜報外交官・杉原が完全に読み切って、大幅な譲歩を余儀なくさせたのである。ソ連にとって「好ましからざる人物」と烙印を押されたのも当然であろう。
■3.プロの諜報外交官

 杉原の「諜報網」とは満洲における白系ロシア人社会に築いたものだった。白系とは共産主義の「赤」に対する「白」という意味で、共産革命に反対したり、あるいは共産党の弾圧を逃れてきたロシア人という意味である。

 杉原はロシア人の家に下宿し、個人教師を雇ってロシア語を学んでいた。さらにロシア婦人と結婚していた時期もあり、そうした縁から白系ロシア人社会に諜報網を築いていったようだ。

 諜報とは機密情報を入手することだが、その正攻法は情報を握る相手と信頼関係を結んだ上で、「ギブ・アンド・テーク」を行うことだ。相手を騙して情報を盗むようなことをしていては、信頼を失い、相手にされなくなってしまう。この点で、諜報は相手を騙す「謀略」とは全く違う。

 杉原の諜報外交官としての類い希な手腕は、ソ連との交渉に現れている。杉原は、誰からどのような情報を得たのかという痕跡をいっさい悟られずに、情報提供者を護った。だからこそソ連側が入国ビザ発給を拒否した際も、具体的に理由も説明できず、単に「好ましからざる人物」としか言えなかったのである。

 さらに白系ロシア人はソ連に敵意を抱いており、杉原に協力して価格交渉に勝たせれば、一泡食わせることができる。それゆえに、積極的に情報を入手し、杉原に提供しようとする協力者もいたのだろう。

 こうした形でソ連の機密情報を掴み、それを交渉に活かしたのは、まさに一流の諜報外交官の手腕であった。


■4.動乱の欧州へ

 杉原のソ連派遣を諦めた外務省は、かわりに1937年8月、在フィンランド公使館への在勤を命じた。フィンランドもソ連の近隣国であり、対ソ諜報活動には重要な国であった。

 同年11月、日本はドイツとの日独防共協定を結んだ。「防共」とは共産主義からの共同防衛である。当時の日本は、ソ連共産主義をもっとも警戒していたのである。

 杉原は約2年間、フィンランドに駐在したが、その間、ドイツによるオーストラリア併合、チェコスロバキアの解体、ユダヤ人迫害事件が起こり、欧州の戦乱が近づいていた。

 フィンランドに2年駐在した後、杉原は1939年7月、リトアニアの首都カウナスに領事館を開設し、領事代理として赴任することを命ぜられた。実は同じ日に、杉原を含む5人の対ソ情報を専門とする外交官がソ連、バルト3国、ポーランドに派遣されている。

 ソ連は日独から挟撃されることを恐れて、ドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。ヒトラーとスターリンの二人の独裁者の野合であった。平沼内閣は「欧州の情勢複雑怪奇なり」の声明を出して総辞職した。

 こういう「複雑怪奇」な欧州情勢に関する情報収集を狙いとして、ソ連およびその周辺国に外務省の精鋭が送り出された。その一人が杉原だったのである。


■5.リトアニアに亡命したポーランド系ユダヤ人

 杉原がカウナスに到着して1ヶ月後、ポーランドは独ソに分割占領された。ポーランドは3~4百万という欧州最大のユダヤ人人口を抱えていた。

 ロシアでも歴史的にユダヤ人排斥が根強く、ロシア語で「ポグロム」と呼ばれる集団的な殺戮、略奪行為が繰り返されていた。ポーランド在住ユダヤ人の多くが隣の中立国リトアニアに逃げ込んだのも当然と言える。

 ソ連は独ソ不可侵条約の秘密事項に基づき、さらにフィンランドとバルト三国に触手を伸ばし始める。リトアニアがソ連に併合されるのも、時間の問題だと考えられていた。杉原が着任したカウナスはこういう状態だった。

 杉原はある商店で買い物をしていた際に、その店の女主人の甥ソリーと出会った。ソリーの家はユダヤ人で、ポーランドから逃げてきたローゼンプラット親子をかくまっていた。杉原はソリー少年の招待に応じて、ユダヤ民族の宗教儀式に参加し、その後、ローゼンプラッツからポーランドの状況を聞き出した。

 リトアニアにはポーランド軍の情報将校などが潜んでいて、ロンドンのポーランド亡命政府のための諜報活動をしていた。彼らと親交を結ぶことが、杉原の諜報網構築の糸口であった。

 そもそも、日本とポーランドは、日露戦争の時にロシアの属領だったポーランドの独立運動を支援した時から親交が始まっており[d]、ソ連成立後もシベリアに流刑となったポーランド人独立運動家の孤児たち765名を日本が救った行為[e]も深く感謝されていた。

 ソリー少年の招待に応じたのも、こうした背景からであった。杉原はソリー少年の一家やローゼンプラッツから情報を得つつも、早くリトアニアから脱出するよう勧めた。ロシアのやり口を見通していたのである。

 ソ連はフィンランドとの冬戦争が片付いた翌年春から、バルト三国に牙を剥き始めた。翌1940年7月17日、反ソ派の政治家を逮捕した上で、リトアニア共産党員だけが立候補を許された総選挙が行われ、成立した傀儡政府はリトアニアのソ連への編入を請願した。8月3日、ソ連はリトアニアの加盟を認めた。


■6.杉原の苦心

 総選挙の直後から、日本通過ビザを求めて、大勢のユダヤ難民が領事館を囲み始めた。ソ連による併合とその後のユダヤ人虐待が目に見えていたからである。

 ここから杉原がユダヤ難民たちにビザ発給を始めるのだが、その情景は[a]に記したので、繰り返さない。ただ、そのビザ発給にも杉原の諜報外交官としての手腕が十二分に発揮されていた点を見ておこう。

 そもそも日本の通過ビザ発給には、行き先の入国許可と十分な旅費を持っていることが必要条件だと「外国人入国令」で定められていた。これを厳格に守っていたのでは、ユダヤ難民たちのほとんどにビザは出せない。

 一方、一外交官が法律を無視して不正なビザを発給したとあっては、シベリア横断後に日本への入国を拒否されるユダヤ難民が犠牲となる。行き先も定かでなく、金も持たないユダヤ難民に大量にビザを発給しながら、いかに「外国人入国令」をぎりぎりで護っている「ふり」をするか、ここが杉原の苦心のしどころだった。

 杉原がとった一手は「本査証(ビザ)は、ウラジオストックから日本行きの船に乗るまでに行き先国の入国許可をとりつけること、日本から出国する際の乗船券の手配を完了することを約束したので交付した」とわざわざスタンプまで作らせて、ビザに記載していることだ。

 杉原ビザを持ったユダヤ難民が続々と日本に到着し始めると、外務省からは現地が対応に困っているので、「以後は」厳重にビザ発給の規則を守るように、という電報が8月16日に来た。「以後は」ということは、「それまでに発給したビザはやむなく有効と認める」ということである。


■7.情報外交官としての手腕

 杉原はこの訓電への返事を引き延ばしてビザの発給を続け、9月1日に、難民に同情すべき点があるので、条件付きでビザを「発給している」との回答を送った。

 この時点ではソ連の命令ですでに領事館を閉じ、ビザ発給を終えていたのだが、「現在進行形」を用いることで、本省サイドに「まずは、早急にビザの発給をやめさせなくては」という「焦り」を生じさせることを狙ったようだ。翌日、本省から再び「以後は」規則を守るようにという訓電が来た。これで、今まで発給したビザはすべて本省が認めた事になる。

 日本の官僚の良い点でも悪い点でもあるのは、規則を四角四面に守ろうとすることである。世界で虐待されているユダヤ人に対しては日本政府として正式に「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決め、平等に扱うように決めていたからもちろん差別などできない。

 外務省としては「外国人入国令」をぎりぎりでも守った形の杉原ビザをこうして認めた以上、受け入れざるを得ない。その辺りを読み切ったのは、杉原の諜報外交官としての手腕であった。

 ユダヤ難民たちは杉原ビザにより、ウラジオストックから船で敦賀に着き、神戸に出て、アメリカ入国のビザを待ったのだが、その間、日本の受入れ担当者や敦賀、神戸の市民から温かく遇された[c]。この親切さは今も昔も変わらない日本人の特性である。


■8.「それが果たして国益に叶うことだというのか?」

 杉原ビザは、こうして彼のユダヤ難民への同情を、諜報外交官の手腕で実現したものだ。しかし、その動機にも「外交官」としての志があったようだ。杉原は後年、「決断 外交官の回想」という手記にこういう主旨のことを書いている。

全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々(うんぬん)を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それが果たして国益に叶うことだというのか? [1,p234]



 ここに見られるのは「自分がどう動くことが国益に叶うのか」を自問自答しながら、自分個人の判断と責任で動いていく諜報外交官の姿である。

 冒頭に紹介したリチャード・サロモン氏の涙からは、杉原ビザがいまだ多くのユダヤ人の心中に感謝の思いとして残っていることが窺える。

 125年前に和歌山県沖で遭難したトルコ軍艦「エルトゥールル号」を県民が救ったことから、日本とトルコの友好が現代まで続いているように[g,h,i]、杉原ビザを日本人とユダヤ人の友好のきっかけとするのは、現代の我々の責務である。

 杉原ビザに関しては、最近、ポーランドの協力を得て映画化され公開中だ[2]。戦前、戦中に日本はいろいろな形でユダヤ難民を助けている[j,k,l,m]。まずは我々日本人が、それらの史実をよく知ることから始めなければならない。

(文責:伊勢雅臣)
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